みなさん、こんにちわ。古井町公民館主事の岩瀬昭彦です。ふるいあっちこっち第5弾は、古井神社にあった悠紀斎田(ゆきさいでん)のいしぶみを紹介します。
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わが古井神社に悠紀斎田のいしぶみがあった。拝殿ひだりがわにあるいしぶみに、「大正天皇御即位悠紀斎田碧海郡御点定記念樹」ってかいてあるだ。悠紀斎田ってのは、天皇即位にともなう大嘗祭(だいじょうさい)につかう新米をつくるたんぼで、全国で2か所指定される。
ほー、大正天皇の大嘗祭のときの悠紀斎田がふるいにあったのか。いやいや、ふるいじゃなくて中島(なかじま)にあっただ。
中島って岡崎の六ツ美(むつみ)地区にあるまちなのに、なんであんじょうのふるいに悠紀斎田のいしぶみがあるのか。いやいや、いまでこそあんじょうと岡崎にわかれちゃっとるけど、むかしはおんなじ碧海郡(へっかいぐん)だっただよ。いま碧海郡っていうと、あんじょう、刈谷、知立、碧南、高浜の5市の範囲かっておもうけど、くわえて、岡崎の六ツ美地区と矢作(やはぎ)地区、豊田の上郷(かみごう)地区と高岡(たかおか)地区、西尾の米津地区も範囲にふくまれとっただ。ほいで、おんなじ碧海郡のまちで悠紀斎田がえらばれたことを、ここふるいでもいわったってわけだ。
ちなみに、悠紀斎田当時、碧海郡の首都はあんじょうだって、中島の悠紀斎田でとれたこめも、あんじょうまでかついではこばれて検査をうけたうえで、あんじょうえきから東海道線ではこばれていった。
ところで、いしぶみのどこにも中島ってかいてない。ほいから、うらめんにかいてあるだけど、このいしぶみをたてたのは1940年。中島に悠紀斎田が指定された1914年から26年もあとだ。つまり、26年もたった時点でも、碧海郡ぜんたいで悠紀斎田をいわうきもちをもちつづけとったし、わざわざ中島ってかかんでもわかりきっとったことだっただ。
いや、ほれにしても、ちいさいころからあそびばにしとった古井神社の、このしょっちゅうめにしとったいしぶみが、悠紀斎田のいしぶみだったとはおどろいた。
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以下、いしぶみのおもてめんとうらめんにかいてあることを、くわしくみてみる。
【おもてめん】
1914年11月14日大典奉祝日
おもてめんについては、かいてあるとおりだ。うえた記念樹は、いまはみあたらん。
【うらめん】
うらめんは悠紀斎田とは関係なくて、このいしぶみをたてた1940年当時のふるいのまちの状況がかいてある。
1940年安城町大字古井現勢
氏別現住戸数183戸
内訳
石原36、杉浦31、岩瀬18、稲垣16、太田11、細井9、大河内7、渥美6、市川6、梅村4、待田4、蜂谷3、伊予田3、林3、大沢3、宮宅2、藤本2、岡山2、寺脇2、丸山2、山田1、山本1、鈴木1、伊藤1、原田1、坂崎1、徳富1、都築1、二村1、小島1、平岩1、柴田1、久野1
戸数183戸は、当時中規模のまちだ。石原、杉浦、岩瀬、稲垣がふるいの4大名字なのは、いまもかわらん。
職業別数
農167、工4、商4、其他8、計183
人口
男518、女525、計1,043
有畜数
牛52、豚127、成鶏7千羽
職業は農がおおくて、全体の9わり。人口1,043人を戸数183戸でわると、1世帯平均5.7人。おもったほどおおくないか。うしやぶたのほか、にわとりが7千羽もおった。わがやにもにわとりがおっただけど、鶏卵は碧海郡の特産品で、東京に出荷されとった。
農作物作付反別
田1,857反歩、畑185反歩、桑園132反歩、果樹31反歩、計2,205反歩
生産物別数量
米11,750俵、小麦3,270俵、大麦590俵、繭2,150貫、鶏卵9,500貫、梨22,000貫、製縄42,500貫
ふるいでもまゆやなしをつくっとった。ほか、製縄(せいじょう)ってのがめずらしい。ほういやあ、わがやにも「なわない機」があったようなきがする。
団体
保証責任古井信用販売購買利用組合(組合員183人/創立1915年6月24日)
古井農事実行組合(組合員171人)
古井養蚕実行組合(組合員52人)
古井有畜農業経営組合(組合員127人)
産業組合貯金総額32万円、同貸付金総額3万8千円、同販売取扱総額25万円、購買取扱総額6万3千円
皇紀2600年記念為后世参考記岩瀬和市当年50建之
団体がいつつ。このいしぶみをたてた1940年が皇紀2600年。たてたひとは岩瀬和市(いわせわいち)さん。団体のさいごにある産業組合は農協の前身。岩瀬和市さんがこれをつくって、さらに、これを中心としてあんじょうし農協をつくった。また、岩瀬和市さんは更生病院もつくっており、ふるいの偉人、あんじょうの偉人だ。
矢田皆吉
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ひだりしたに「岡崎市矢田皆吉」ってかいてあるのは、このいしぶみの制作、設置をうけおった業者か。
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〔2020年5月21日発見〕
(※ うらめんの部分ごとの写真は翌日さつえい)