※ このブログ記事は冊子『古井の歴史案内』を一章ごとに順不同で紹介するものです。
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通史3 西からの風の中で古井は ~弥生 古墳 奈良 平安時代~
(1) 東日本のなかの西の端
① 鹿乗川流域遺跡群
紀元前8世紀ごろ大陸(朝鮮または山東半島(しゃんとんはんとう)) から来た人々によって伝えられた稲作は、九州北部にはじまり、東へ東へと広がっていきました。福岡県遠賀川(おんががわ)流域の稲作のムラでつくられた土器も稲作と同じように伝えられ急速に普及しました。遠賀川式土器(おんががわしきどき)といいます。

【写真62-1】遠賀川式土器(愛知県清須市朝日遺跡)
安城市歴史博物館の常設展示場に弥生時代のジオラマがあります。そのモデルとなったムラは清須市の朝日遺跡(あさひいせき)です。

【写真62-2】ジオラマ 弥生のムラを訪れた親子 『安城市歴史博物館常設展示案内』から
朝日遺跡は東海地方を代表する弥生時代(やよいじだい)前期の遺跡です。そのムラで種モミを分けてもらっている場面です。右側の父親がかついでいるのは条痕文土器(じょうこんもんどき)です。鹿乗川流域のムラから来た親子という設定です。
古代の遺跡
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1 神ノ木遺跡 2 稲尾遺跡 3 竹ケ花遺跡 4 上橋下遺跡 5 野辺遺跡 6 下橋下遺跡 |
7 塚越古墳 8 塚下遺跡 9 三ツ塚古墳 10 井ノ池遺跡 11 愛染古墳 12 東川古墳 |
13 彼岸田遺跡 14 古井堤遺跡 15 釈迦山遺跡 16 本神遺跡 17 二子古墳 18 堀内貝塚 |
古井や桜井の鹿乗川流域でも稲作がはじまりましたが、遠賀川の文化は、知多半島の丘陵(きゅうりょう)を越えて東へ広く普及しませんでした。

【写真62-4】条痕文土器 高さ68cm 口径26cm (安城市教育委員会)
上の土器は、古井堤遺跡(ふるいづつみいせき)出土の大型の壺(つぼ)です。壺の全体をハイガイでひっかいて条痕文をつけています。
鹿乗川流域で稲作がはじまると人々の生活が台地から低地に移ります。微高地(びこうち)に竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)を建てて住まいとしました。地図に示すように古井の集落の東の水田地帯には遺跡が点在しています。
岡崎市島坂町(しまさかちょう)の坂戸・三本木遺跡から安城市寺領町(じりょうちょう)の惣作遺跡(そうさくいせき)までの約5㎞を鹿乗川流域遺跡群といいます。
1955年(昭和30)ごろからはじまったほ場整備事業で、島畑の土砂を削り取ったところ大量の土器が出土しました。また、1998年(平成10)にはじまったほ場整備事業や鹿乗川拡幅工事にともなう発掘調査により鹿乗川流域遺跡群の全容の解明が進みました。発掘調査報告書ではその特徴を4点挙げています。
- 弥生時代から室町時代までの遺構や遺物が見つかっており集落が長く続いていた。
- 古井式土器や桜井式土器(さくらいしきどき)など特色のある土器が出土している。
- 外来系土器も出土していて、人と物の交流の拠点集落だった。
- 人面文土器など線刻画土器(せんこくがどき)や墨書土器(ぼくしょどき)が多数発見されている。
② 古井の土偶形容器
目・鼻・口・眉がはっきりわかります。

【画像63-1、2】下橋下遺跡(しもはしかいせき)出土の土偶形容器(どぐうがたようき)(複製) 高さ16cm
(原資料:愛知県陶磁美術館蔵)
縄文時代晩期から弥生中期のもので、顔や頭の様子がよくわかる出土品としては逸品(いっぴん)です。
土偶形容器は三河から信濃にかけて見つかっていて、条痕文系土器の分布圏と似ています。縄文時代の土偶とのちがいは、胸の表現や腹部を含めた下半身がないことです。また頭部を開けた容器となっていることです。幼児の歯や骨を入れた再葬用骨蔵器(さいそうようこつぞうき)と考えられます。
③ 古井式土器

左【写真63-3】下橋下遺跡の古井式土器(安城市教育委員会)
右【写真63-4】惣作遺跡の古井式土器(安城市教育委員会)
古井式土器(ふるいしきどき)は、弥生時代を代表する土器様式の一つです。上の図は壺形の古井式土器です。鹿乗川流域遺跡群の南端の惣作遺跡(そうさくいせき)で出土しました。古井以外でも使われていたといえます。紀元前100年から紀元前50年ころの製作です。上部に8本前後の歯のある櫛を使って平行線を描いています。この土器の特徴は、この櫛描文(くしびょうもん)と肩の部分をふくらませていることや黒く焼き上げていることです。
④ 本神遺跡の発掘
1964年(昭和39)、阿原川に面した泥田をかさ上げするために、古井町の南端の本神(一部釈迦山)の畑の表面の土を2mほど削り取り、トロッコで泥田に運びました。その土取り工事で大量の土器が見つかりました。当時の古井町内会長の梅村圓次*1から安城市教育委員会に届け出がありました。石原教太郎教育長が先頭に立って緊急調査することになりました。文化財保護委員会で調査方針を協議し、天野暢保氏の指揮で8月16日から10日間かけて実施されました。夏休み中だったこともあり、大勢の教師が参加しました。古井町内の関係者(敬称略)は次の方々です。梅村圓次*2・山田月清・杉浦豊治・石原太介・尾関文啓・有我保徳・杉浦長三郎・石原清治・杉浦成一。

【写真64-1】本神遺跡の緊急発掘 1964年(昭和39) (安城市教育委員会)
発掘により、台地の端に沿って環壕(かんごう)が続いていたことが確認できました。また、東海西部独特の土器や外来系の土器もあり、この地域の特色のある文化圏の存在を裏付ける遺跡です。文化財保護の大切さを訴える契機となる発掘調査でした。
その後、2004年(平成16)県道の歩道整備、2008年個人住宅建設と、2011年県道から入る狭い道路の拡幅工事があり、3回の発掘調査が行われました。

【写真64-2】本神遺跡の環壕
『2011年度(平成23)市内遺跡発掘調査報告展』から (安城市教育委員会)
上の写真は2011年度(平成23)の3回目の調査です。幅3m、深さ2.5mのV字型の環壕が確認できました。
環壕内に壷(つぼ)、甕(かめ)、高坏(たかつき)など様々な土器が見つかりました。

【写真64-3】本神遺跡環壕内の土器
『2011年度(平成23)市内遺跡発掘調査報告展』から(安城市教育委員会)
土器は弥生時代後期から終末期(100~200年頃)のもので、畿内地方のたたき甕の技法の土器や遠江(とおとうみ)地方の技法による甕形土器があり、遠い地方との交流があったことが分かります。

【写真64-4】パレススタイルの壷
高さ19cm 口径13cm (安城市教育委員会)
上の土器は、本神遺跡(ほんじいせき)出土のパレススタイルの壷です。無地の表面に弁柄(ベンガラ)色の赤い塗料(酸化鉄)を塗ったものです。ギリシャのクノッソス宮殿で見つかった陶器に似ていることからパレススタイルの壷とよばれます。
⑤ 釈迦山遺跡の木製品
1986年(昭和61)憶念寺の東、阿原川左岸の水田の土壌改良工事で土器片が見つかり、工事を中断して発掘調査が行われました。

【写真64-5】木製品の出土状況
『安城市埋蔵文化財発掘調査報告書第8集』から (安城市教育委員会)
土器や石器(石斧・石鏃)の他に、まこもなど湿地帯の植物が厚く堆積した腐植土の層に多くの木製品が埋まっていました。
釈迦山遺跡(しゃかやまいせき)の水分を多く含んだ地層により、木製品の保存状態が良かったと考えられます。様々な木製品から弥生時代の人々の生活の様子がわかります。

【写真65-1】竪櫛 縦13cm
鍬(くわ)だけでなく鋤(すき)も使っての農耕、堅杵(たてぎね)を使っての籾摺り(もみすり)、機織り(はたおり)技術が伝わってきたことなど、稲作という農耕生活は、さまざまな道具を生み出し生活を発展させました。上のような竪櫛(たてぐし)も発見されました。

【写真65-2】平鍬 木部の曲柄 長さ22cm 【写真65-3】堅杵 長さ96cm
『安城市埋蔵文化財発掘調査報告書第8集』から (安城市教育委員会)

【画像65-4】布を織る機織りの様子 『新編安城市史10資料編考古』

【画像65-5、6】木製短甲(鎧) 縦12cm
『安城市歴史博物館常設展示案内』から (安城市教育委員会)
上の図は鎧(よろい)の一部です。木製の盾(たて)も見つかっています。当時、祭事の道具だったと考えられます。
⑥ 細井信治発掘の下橋下の土器

【写真65-7】台付甕 【写真65-8】広口壷
(安城市教育委員会)
1958年(昭和33)鹿乗川の右岸の耕地整理が行われました。下橋下の地主の細井信治が自分で掘り出した土器や石器を自宅でガラスケースに入れて大切に保管していました。近年、現在の世帯主の細井新弥氏が安城市歴史博物館に寄贈されました。

【写真65-9】細井信治収集の下橋下遺跡の石器(安城市教育委員会)

【写真65-10】土器採集の図 (個人蔵)
上の掛軸は細井信治の発掘作業の姿を描いたものです。
自分の田んぼの中の島畑の土をていねいに取り崩して土器や石器を採集している様子がよく分かります。
2009年(平成21)古井町内会「ふれあい広場」で細井信治発掘の土器と掛軸を展示しました。当時を懐(なつ)かしむ人が多くいました。
⑦ 神ノ木遺跡 弥生~中世の遺構
1832年(天保3)『天保の村絵図』に神ノ木の隣に「若宮」が記されています。1873年(明治6)に古井神社にうつされるまでここで「若宮」(仁徳天皇)が祀られていました。
県営西鹿乗地区ほ場整備事業に伴い、島畑が削平(さくへい)されることになり、2001年(平成13)島畑とその周辺を含めた調査が行われました。調査の後、現地説明会で配られた資料によると、弥生時代・古墳時代のほか、平安から戦国時代までの遺構や遺物も見つかりました。鹿乗川流域遺跡群の中でも、長期にわたって集落が存続していたといえます。竪穴住居が18棟以上確認されました。5m×5mの方形で4つの柱穴が見つかりました。深さ約2mの井戸も17基見つかりました。
瀬戸焼(せとやき)や常滑焼(とこなめやき)、次の図のように煮炊きに使われた羽釜(はがま)や内耳鍋(ないじなべ)も多く見つかりました。家族の食事風景が想像できます。

【画像66-1】羽釜 【画像66-2】内耳鍋
神ノ木遺跡(かみのきいせき)では、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が5基、県道岡崎西尾線をはさんで上橋下遺跡(かみはしかいせき)で10基見つかりました。縄文時代から弥生時代前期までの土器棺墓や土壙墓に変わって、次の写真のように、1辺10mの方形で、まわりは深さ50cm~1m、幅1~2mの溝を掘り溝の土を内側に盛り上げ、墓域としてその中央に土器棺をおさめました。木棺で葬る例もあります。
古墳と違うのは集落の一角に方形周溝墓を築いたこと、副葬品(ふくそうひん)を納めなかったこと、支配階級の未発達な時代の墓制だったということです。

【画像66-3】神ノ木遺跡の方形周溝墓 『安城市埋蔵文化財発掘調査報告書第41集』から
火葬墓(かそうぼ)が5基見つかりました。壁面は熱で赤みを帯びていて、内部に人骨と木炭が残っていました。

【画像66-4】火葬墓 横1mの楕円形 (安城市教育委員会)
⑧ 「人面文壷形土器」と線刻画土器

【画像66-5】人面文壷形土器 高さ26.5cm 『新編安城市史10』から
1977年(昭和52)桜井の亀塚遺跡(かめづかいせき)で壺の胴部に入れ墨(いれずみ)を持つ人の顔を描いた土器が見つかりました。天野暢保氏は「人面文土器(じんめんもんどき)」と命名して発表したら、全国的に注目されました。
のちに 2016年(平成28)国の重要文化財考古資料として「人面文壷形土器」の名で指定を受けました。亀塚遺跡の「人面文壷形土器」は、日本史を書き換えるほどの情報を持つ文化財です。教育委員会では、文化財企画展「原始・古代人の顔」を開催し、これをもとに安城にも地域の歴史を展示する博物館建設の機運が高まり、1992年(平成4)「安城市歴史博物館」ができました。
東上条遺跡(ひがしじょうじょういせき)でも顔を描いた球形の土製品が見つかっています。
動物や模様を描いた線刻画土器(せんこくがどき)は、下のように古井でも発見されています。土器に線を引く技能を持った人は、それぞれのムラで複数人いたと考えられます。

【画像67-1】神ノ木遺跡出土の壷 トリの線刻画 『新編安城市史10資料編考古』から

【画像67-2】線刻画のある土器の破片 釈迦山遺跡の出土の壷 『新編安城市史10資料編考古』から
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弥生式土器
北九州で始まった稲作が普及した時代を弥生時代といいます。1884年(明治17)現在の東京都文京区弥生町の向ヶ岡貝塚で発見された土器は、文様が少なくうすくできているなど、それまで出土していない特徴が注目され、「弥生(式)土器」と命名されました。
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(発掘の思い出)
弥生時代へタイムスリップ
大きなショベルカーが田んぼの土を50cmほど削り取った。神ノ木遺跡に作業員が15人、ブルーシートをはがして日よけのできる服装で入っていく。手にはシャベル、土を運ぶジョレン、竹べら。今日はどんな遺物にあえるかワクワクしながら弥生時代の土をガリガリ削っていく。土の色が変わっているところは家の跡。黒く焦げた土はお勝手(おかって)の跡。家の形があらわれてくる。
ある日、丸い形の土器の一部が見つかりみんなが集まる。傷つけないように竹べらと竹串で少しずつ土を取り除いていく。甕(かめ)の全貌(ぜんぼう)が見えてくる。甕の中の土はそのまんま博物館に運ぶ。
神ノ木遺跡には、何世紀にもわたって人の暮らしがあった。井戸の数・墓の跡・家の跡の多さから住みやすいところだったのだろう。真夏の炎天下での作業、熱中症で救急車のお世話になった人もいた。でも、発掘作業は、昔へ夢をふくらませることができて楽しい仕事だった。
古井町歴史研究会会員
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『考古学フォーラム2013 変貌する弥生社会』を参考に作成
(2) 東海西部にも古墳文化
① 古井と桜井の古墳群
安城市全体の中でも碧海台地の東の端、古井と桜井に古墳が集中しています。南北2.4kmに19基の古墳が確認でき、桜井古墳群とよばれています。
図のように3つの支群に分けると、北支郡は塚越古墳(つかごしこふん=前方後方墳45m)を主墳として6基、中央支群は二子古墳(ふたごこふん=前方後方墳68m)を主墳として8基、南支群は姫小川古墳(ひめおがわこふん=前方後円墳66m)を主墳として5基で構成されています。

【画像68-1】桜井古墳群 『安城市史1通史編』から
② 塚越古墳
古井町塚越(つかごし)の願力寺の裏山が塚越古墳です。かつて地元では大塚・王塚「オオツカ」「獅子塚(ししづか)」とも呼んでいました。願力寺の山号は松塚山(しょうちょうざん)です。平成20年(2008)代までは、松の高木でおおわれていましたが虫害により枯れてしまいました。
古井の集落は碧海台地が東にせり出していて、塚越古墳は、北側標高13mの台地の上に、主軸を北側に向けてつくられました。低い平地(沖積低地)との高低差は5mです。平地は水田地帯となっています。藪がなければ古墳の墳頂部から東尾の八幡社や安祥城址の森までを見渡すことができます。低い平地は、稲尾遺跡(いなおいせき)や神ノ木遺跡その東に竹ケ花遺跡(たけがはないせき)が確認されています。神ノ木遺跡は弥生時代後期から古墳時代さらに戦国時代までの複合遺跡です。

【写真68-2】塚越古墳 2024年2月
ア)1949年度(昭和24)の発掘調査
戦後間もないころ郷土史家三井博と古井の青年団が主力になって発掘が行われました。戦後の文化国家建設のいぶきのなか、地域の期待も大きく願力寺住職の山田亮賢(当時大谷大学教授)も積極的でした。
発掘に参加したのは次の24名でした。
| 伊與田與太郎*3・大河内梅太郎・細井信治・杉浦照一・渥美豊三郎・石原朝市・渥美保信・太田武一・石原浅次郎・杉浦昭・石原千足・藤本昭夫・石原勝・細井達美・石原武・杉浦光雄・渥美金作・渥美三世夫・石原岩夫・杉浦保・石原由三・石原勇・蜂谷源左衛門・伊藤敏彦 |
発掘調査報告書には、次のように出土品が記録されています。
| 叩き石(たたきいし=花崗岩製(かこうがんせい)) |
1点 |
| 碧玉製紡錘車型(へきぎょくせいぼうすいしゃがた)石製品 |
1点 |
| 鉄製品の残欠片 |
13点 |

【写真69-1】塚越古墳の出土品 (安城市教育委員会)
写真の1は鉄製品で長さが15cm、写真の2と3も鉄製品で、刀剣類か工具類かのどちらかです。写真の4は幅5cmです。碧玉製紡錘車型石製品です。出土品は副葬品であると考えられます。
イ)2017年度(平成29)の発掘調査
一番寒い時期(12月4日~2月24日)の発掘調査でした。蚊に悩まされる夏場よりもよかったそうです。この発掘は、塚越古墳が前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)か前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)のどちらなのかを明らかにすることを目的に行われました。古墳の大きさも下のように正確に明らかになりました。
〔調査結果〕
| 墳丘長 |
45.1m |
| 後方(円)部高さ |
4.8m |
| 標高 |
13.2~18.0m |
| 前方部高さ |
3.1m |
| 周溝 |
幅3.8m/深さ0.6m |

【画像69-2】塚越古墳の発掘調査測量図

【写真69-3、4】円筒埴輪 トレンチ3から出土

【写真69-5】トレンチ1 墳頂部 【写真69-6】トレンチ4 古墳の前方
『2017年度(平成29)市内遺跡発掘調査報告展』から (安城市教育委員会)
トレンチ1からは鉄剣か鉄ヤリが、また、トレンチ3の周溝からは円筒埴輪(えんとうはにわ)が出土しました。安城初の大型円筒埴輪です。トレンチ4からは盛り土の状況が分かりました。

【画像70-1】前方後円墳と前方後方墳
古墳の形状は、前方後円墳か前方後方墳か未だ確定するだけの証拠を見出すことができなかったとのことです。
出土品の整理作業で、大型の厚手円筒埴輪であることがわかりました。発掘の大きな成果でした。
ウ)2024年度(令和6)の発掘調査
古墳の周囲から幅約6mの溝が見つかりました。溝が延びる方向から前方後方墳の可能性が高くなりました。周囲の溝の位置から古墳の後方部はひとまわり大きかったと考えられます。
③ 愛染古墳
古井町の中心部、県道安城桜井線沿い、あいち中央農協古井支店の西にあり、愛染明王が祀られています。北からの開析谷の最奥部にあります。標高13mの上に2m土を盛り上げた円墳です。発掘調査はされていませんが、頂上部の堂内に1983年(昭和58)岩瀬和市による由緒書きがあります。

この由緒書きには1891年(明治24)濃尾地震(のうびじしん)の際、墳頂部にあった堂が全壊したため、墳丘を4mほどけずって再建したと説明しています。
2000年(平成12)安城市史編纂にあたって墳丘(ふんきゅう)測量調査が行われました。現在残っている墳丘は、南北24m、東西15m、高さは2mです。由緒にあるように墳頂部はかなりけずられていて、広い平坦面になっています。
現在の堂の南側を墳丘の中心にして復元すると、直径24m、高さ6mの円墳だと考えられます。

【画像70-2】愛染古墳の墳丘実測図 『新編安城市史10資料編考古』から
④ 三ツ塚第1号古墳・三ッ塚遺跡

【写真71-1】三ツ塚公園内の第1号古墳 2023年9月
2019年(令和元)8~10月、都市型公園『三ツ塚公園』設置工事にともなう発掘調査が行われました。

【写真71-3】三ツ塚古墳の発掘 【写真71-2】須恵器
『2019年度(令和元)市内遺跡発掘調査報告展』から (安城市教育委員会)
報告展によれば、鎌倉時代の山茶碗が見つかりました。また、墳丘の西側のくぼみから古墳時代の須恵器(すえき)が出土しました。須恵器は古墳時代の遺物です。
第1号古墳から約100m北西の地点に、かつては同じような第3号古墳があって、これを壊して整地した際に金環(きんかん)と鉄が出土したと伝えられています。金環とは金メッキした耳飾りで、鉄刀とともに古墳時代中期・後期の古墳からよく見つかるそうです。また、場所は特定できませんがこの付近にもう1基、同じような形の第2号古墳があったことから、三ツ塚の地名となっています。
⑤ 東川古墳
三ツ塚古墳と同様に東川(ひがしがわ)にも三つの塚がありました。古井の人々によく知られているのは御堂山(みどうやま)の古墳です。東西9m南北11mの方墳とみられています。ササなど草木が生い茂り、正確には形状を把握することができません。芝刈りなどの管理はほとんどされていません。

【写真71-4】東川古墳(御堂山の古墳) 2023年10月

【写真71-5】東川古墳(十王堂の古墳) 2023年11月
古井町十王堂(じゅうおうどう)にある東川地蔵尊(子ども地蔵)の南に古墳があります。4m四方、50cmの盛り土。東川古墳をふくめた「東川の三ツ塚」の一つであるともいわれています。
⑥ 古井のすぐ近くの古墳
ア)碧海山古墳(桜井町中開道)
県道安城・桜井線、信号交差点阿原下を過ぎてすぐの所に位置します。阿原川(堀内川)開析谷の台地上にあり、堀内貝塚から近い距離にあります。高さ4.5m、直径24mの円墳です。頂上が平らで広くなっていることが特徴です。古墳時代前期から中期(1400~1500年前)と推測されています。1965年(昭和40)安城市指定史跡となりました。

【写真71-6】碧海山古墳 2023年10月
里の人々が頂に社(やしろ)を立て倭姫命(やまとひめのみこと)を祀りました。また、頂からはるか先に碧い海が見えたことから碧海郡の発祥の地であるともいわれています。
イ)二子古墳

【写真72-1】二子古墳 2023年12月
釈迦山にある子ども運動広場から東の方向、集落越しに二子古墳(ふたごこふん)の松林が見えます。二子古墳は、阿原川(堀内川)の開析谷の出口、標高12mに南北に長く築かれました。古井と桜井古墳群の中では最大で、全長は68m、前方部の高さは4m、後方部の高さは7mの前方後方墳です。葺石(ふきいし)や埴輪は確認されていませんが、古墳内の松の木が台風で倒れたとき、根元から土師器(はじき)の破片が見つかりました。
1927年(昭和2)国史跡に指定され、南の入口に記念の石碑が建てられました。
また、1979年(昭和54)史跡指定区域を取り囲む柵が設置されました。後方部の頂上に1914年(大正3)桜井神社に合祀されたという「桜井天神社古趾(さくらいてんじんしゃこし)」の記念碑が立っています。二子古墳の頂上から南230mに桜井神社の松林が見えます。桜井神社の社殿は、比蘇山古墳(ひそやまこふん=前方後円墳)の上に建てられています。

【写真72-2】桜井天神社の記念碑 2023年11月
⑦ 古墳発生の歴史的意義
古墳と神ノ木遺跡や上橋下遺跡で発見された弥生時代の方形周溝墓のちがいは、古墳の方が規模が大きいことや集落から離れた台地の端につくられたこと、多数のムラの財宝を備えていることなどです。
新しいムラの頭は、遠くのクニの王(首長)との連合・服従関係を維持しようとしました。遠方からの使者に、造った山であることがはっきり分かるような前方後方墳・前方後円墳を築造しました。また、遠方の仲間の王の力を借りてクニを守る必要から、遠くの王の戦争には、ムラの住民を引き連れて加勢しました。ムラは支配体制を備えた地方国家に発展しました。桜井小学校・桜井中学校が編集した『桜井の歴史』に、二子古墳の盛り土の土量が53,000立方メートル以上で小型のダンプカーで1万台になると記しています。
二子古墳のすぐ東は二タ子遺跡(ふたごいせき)ですが、その集落の住民だけの労力で築造できるものではありません。畿内のヤマト政権や、ほかの巨大な政権から土木技術者を派遣してもらい、鹿乗川流域または矢作川流域全体に呼び掛けての土木工事だったと考えられます。まず二子古墳がつくられ、次に塚越古墳そして姫小川古墳(全長66m 前方後円墳)がつくられていきました。当時、古墳には木が生えていない墳丘の巨大古墳が南北にいくつも続いている景観は、外向きにも大きな勢力のクニであることを強調したといえます。
二子古墳が築かれる古墳時代前期には、集落は、古井町稲尾付近から鹿乗川流域に沿って東町の亀塚遺跡そしてさらに南へ姫小川町までの南北約5kmに広がっていました。この鹿乗川流域遺跡群は、矢作川流域では屈指の文化が集中する地域であり、その発展として築造された古井と桜井の古墳群は西三河では最古級であると考えられます。

【写真73-1】『三河国、ここにはじまる』
その研究の成果が『三河国、ここにはじまる』(安城市教育委員会・土生田純之編/雄山閣/2017年)にまとめられました。
この書の表紙のカバーには、二子古墳の写真と2012年(平成24)古井町本神遺跡の発掘現場説明会で地元の人々が見学している写真が使われています。
このような大規模な古墳づくりの体制は、3世紀ごろ近畿地方の大和盆地(やまとぼんち)ではじまりました。副葬品には三種の神器とよばれる鏡・玉・剣のほかに鉄製武具類が納められました。前期古墳から出土する鏡(三角縁神獣鏡=さんかくぶちしんじゅうきょう)の分布を線で結ぶとその線が特定の古墳に集中し、拠点の古墳から配られたという説があります。
その古墳が山城国椿井(つばい)大塚山古墳(おおつかやまこふん=全長175m/京都府木津川市)と大和黒塚古墳(やまとくろづかこふん=全長130m/奈良県天理市)であると考えられます。『愛知県史資料編3』では、「政治的な中枢が畿内に生まれ、畿内勢力を盟主とした地方の首長との政治的連合体が形成された」と述べられています。
古墳の形状が、畿内地方では前方後円墳ですが東海地方は、二子古墳のように前方後方墳ではじまっています。この違いに二つの説があります。一つは、ヤマト王権が地方のクニを下とみて、前方後方墳にさせたとみる説、もう一つは東海地方西部がヤマト政権と対立する狗奴国連合(くなこくれんごう)の一角になっていたから前方後方墳になったとみる説です。狗奴国が『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にある邪馬台国(やまたいこく)と対立していたとする説によります。
畿内地方とは違う鹿乗川流域遺跡群の独特の文化(人面文土器・パレススタイル土器・容器型土偶・縄文時代晩期の再葬墓や叉状研歯(さじょうけんし)など)が桜井古墳群の前方後方墳に関連しているとも考えられています。
〔東海地方各地の最古級の古墳〕
| 名称 |
所在地 |
墳形 |
全長 |
象鼻山古墳 粉糠山古墳 東之宮古墳 二子古墳 市杵嶋神社古墳*4 銚子塚古墳 |
養老町 大垣市 犬山市 安城市 豊橋市 磐田市 |
前方後方墳 前方後方墳 前方後方墳 前方後方墳 前方後方墳 前方後円墳 |
42m 100m 72m 68m 55m 108m |
西三河で最大の古墳は、西尾市吉良町の正法寺古墳(しょうぼうじこふん=全長94m/前方後円墳)です。古墳時代中期の築造、当時、すぐ前が三河湾の海岸線でした。海上交通を掌握した首長、また、海上ルートでヤマト政権との強い関係を持った首長だったと考えられます。
岡崎市の西本郷に和志取古墳(わしとりこふん=全長60m/前方後円墳)と宇頭町に宇頭大塚古墳(うとうおおつかこふん=全長60m/前方後円墳)があります。西三河の中心が古井と桜井古墳群から西本郷と宇頭の古墳群に移ったと考えられます。
神話に基づくいわれですが和志取古墳は、景行天皇の皇子の五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)の墓ということで宮内庁管理となっています。宇頭大塚古墳は後円部墳丘上に薬王寺(やくおうじ)がありますが、前方部は江戸時代初期に東海道によって切断され原形をとどめていません。
古墳時代後期、5世紀末から6世紀初頭にかけて古墳は、平地に横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を築き、その石室を土でおおった円墳が主流となりました。前方後円墳に比べ規模が小さいことが特徴です。木棺に納められた死者は石室の一番奥の玄室に安置され、周りに副葬品(鉄刀や馬具・須恵器など)が供えられました。埋葬後石室の入口は石を積んで閉じられました。その後、家族の関係者が亡くなると石室の入口を開け追加埋葬しました。
(3) 古代寺院の時代
① 仏教伝来
聖徳太子に関する伝え『上宮聖徳法王帝説』や元興寺(がんごうじ)の縁起には、538年に仏教が伝わったとしています。また、『日本書紀』には、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)が欽明天皇(きんめいてんのう)に金銅製の釈迦像と仏の教えを説いた書物を贈ってきて、日本でも仏教を取り入れるようにと言ってきたとあります。
天皇は大勢の豪族に仏教を受け入れるべきか検討させました。結局、蘇我稲目(そがのいなめ)の主張をとり、仏教が入ってきました。金堂や講堂・塔など備えた日本最初の本格的な寺院は、蘇我馬子(そがのうまこ)が建てた法興寺(ほうこうじ=飛鳥寺)です。つづいて聖徳太子が四天王寺(してんのうじ)と法隆寺(ほうりゅうじ)などを建てました。624年には46の寺ができました。仏教が盛んになったこの時代を飛鳥時代(あすかじだい)といいます。
白鳳期(はくほうき=645~710年)には、伊勢国や美濃国・参河国でも寺院造営がはじまりました。岡崎の北野廃寺、安城では、別郷廃寺(べつごうはいじ)と寺領廃寺(じりょうはいじ)です。
② 別郷廃寺
別郷町の市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)の拝殿脇に花崗岩(かこうがん)でできた礎石(そせき=長軸97cm、短軸96cm、厚さ46cm)が縦に立てられています。北野廃寺(きたのはいじ)と同時期の古代寺院の伽藍(がらん)の礎石です。神社に運びこまれたと伝えられています。瓦も多数出土しています。

【写真74-1】別郷廃寺の礎石 市杵島姫神社境内
2013年(平成25)民家改築にともなっての発掘調査で、大量の古代瓦のほかに瓦製の鴟尾(しび=復元推定の高さ120cm)の破片が見つかりました。唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂の屋根の鴟尾と同じ大きさです。

【写真74-2】別郷廃寺鴟尾 『2013年度(平成25)発掘調査報告展』から (安城市教育委員会)
平安時代の漢詩集『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』に、「参河碧海郡に一道場あり、薬王寺という。行基菩薩(ぎょうきぼさつ)建立の所なり。・・・草堂あり、経蔵あり、茶園あり、薬圃あり。」(読み下し文)と紹介された薬王寺が別郷廃寺のようです。「行基(ぎょうき)が建立した」とあるのは、由緒ある寺であるという意味のようです。
③ 寺領廃寺

【画像74-3】寺領廃寺推定復元図 『安城市歴史博物館常設展示案内』
1954年(昭和29)の発掘調査で、上図のように講堂・金堂・東塔・西塔の配置が推定されました。矢作川西岸の洪積台地に位置し、東大寺式伽藍(とうだいじしきがらん)で境内は東西127m南北146mと推定される壮大な寺院でした。

【写真74-4、5】寺領廃寺の軒丸瓦(左)と軒平瓦(右)
『安城市発掘調査報告書第12集』から (安城市教育委員会)
軒丸瓦(のきまるがわら)は、北野廃寺や別郷廃寺でも見られる高句麗(こうくり)系のものがふくまれています。製作時に型板に麻布を敷いて成形したことから布目が残り布目瓦(ぬのめがわら)とよばれています。
(4) 都との関りが強くなったころ
① 乙巳の変(大化の改新)
「乙巳の変(いっしのへん)」は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=のちの天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、蘇我氏から政権を奪ったクーデターであり、政治改革の入口にたった事件だとわかってきました。中大兄皇子らは天皇を中心とし、律と令という法律に基づく支配体制を築く努力を重ねます。
天智天皇(てんじてんのう)が病没すると朝廷の周囲では二派に分裂して、672年壬申の乱(じんしんのらん)が起きます。これを勝ち抜いた大海人皇子(おおあまのおうじ)は天武(てんむ)天皇として朝廷の頂点に立ちました。以後、持統(じとう)天皇・文武(もんむ)天皇がこれを引き継ぎ701年には大宝律令(たいほうりつりょう)ができます。このころまでに土地・人民の支配方策がまとまり、かつて「大化の改新」の4項目(以下に示す)とされた制度ができあがりました。
- 公地公民の制。豪族所有だった土地・人民を天皇のものとする。
- 国・郡・里制。全国に国司・郡司・里長の役人を置き、七道に駅家と駅馬をもうけた。
- 班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)。人民に口分田(くぶんでん)を与え耕作させる。
- 租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)の租税制度を整える。
② 三川・青見・桜井
2003年(平成15)、奈良県明日香村の石神遺跡現地説明会で次のような木簡が紹介されました。天武朝期(673~686年)の木簡です。

【画像75-1】石神遺跡出土の木簡の釈文
三川国青海評から都へ派遣された「仕丁」に対して、支給する食糧を記載した帳面「帳簿木簡」のひとつです。
「二升」とあるのは、各サトから2人が1組になって、仕丁として送られましたが、この2人に支給する1日分の食糧です。
仕丁は「よぼろ」または「つかさのよぼろ」とよみ、2人ひと組で送られ、1人は都建設などの力仕事に従事し、もう1人は廝丁(しちょう)といい、1人のための炊事などに従事する建前になっていました。
「鳥取」は、「わしとり」とよみ和志取里のことです。「櫻井*5」は古井を含む鹿乗川流域遺跡群のこと、「青見」は「あおみ」とよみ碧海里のこと、「知利布」は「知立里」です。
「評・郡」はともに「こおり」とよみ、「五十戸・里・郷」はどれも「さと」とよみ、表のように移り変わったとみるのが有力な説です。

【画像75-2】郡や郷が評・五十戸とよばれた時代
村内の家族を50戸で束ねて一つの里としました。里の中の家々をしっかりと支配するために戸籍(こせき)をつくらせました。戸籍には、各戸ごとに戸主の名前を書き、続いて直系家族・傍系家族・各妻妾(さいしょう)、ほかに寄人(没落自由民)や奴婢(ぬひ=下男・下女・召使い)を記載しました。戸を単位とした課役や兵士の徴発、口分田の支給、租税徴収を確定するうえで重要な基本台帳でした。

上の表から「参河」と表記されるのは奈良時代初めごろからだとわかります。「青見評」は「あおみのごおり」と読みます。同じく奈良時代に碧海郡となります。「五十戸」は「さと」と読みます。
下は、長さ296mm、幅58mmの大型帳簿木簡の表と裏です。おもての「加牟加皮手(かむかひて)」の手は技術者をさし、「加牟加皮手」が率いる仕丁集団で、裏を見ると構成員の出身が分かります。桜井戸には古井も含まれています。

【写真76-1、2】天武天皇のころの木簡 石神遺跡 (奈良文化財研究所)
③ 古代の郷

『倭名類聚抄』の郷 (参河国碧海郡)
『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』は『倭名抄』ともいい、10世紀につくられた20巻分類体漢和事典です。上の表は『倭名類聚抄』にある碧海郡内の郷を列記したものです。谷部(はせべ)は岡崎市西本郷のあたりです。采女(うねめ)は、豊田市上郷町と畝部町のあたりです。采女は宮廷で食事や天皇の身の回りの雑事をする女官のことです。桜井は古井を含めた鹿乗川流域遺跡群の地域です。
8世紀の初め、律令制度が整うと参河国は五畿七道のうちの東海道に編成されました。参河国の国府(こくふ)は、穂国(ほのくに=豊川市)に置きました。朝廷から国司が派遣されました。参河国は8つの郡に分けられ郡衙(ぐんが)という役所が置かれました。そして地域の有力者が郡司に任命されました。この地域は碧海郡ですがその郡衙がどこか特定されていません。しかし、古井の彼岸田遺跡(ひがんでいせき)から大量の墨書土器(ぼくしょどき)が出たことから郡衙に関係する役所があった所だと考えられます。
安城鹿乗工区の県営ほ場整備事業を前にして2003年(平成15)発掘調査により大量の墨書土器(109点)が見つかりました。

【写真76-3】彼岸田遺跡の墨書土器 『安城市埋蔵文化財発掘調査報告書第30集』 (安城市教育委員会)
④ 「犬頭糸」を送り出す土地
平安時代末期(1120年代)につくられた説話集『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』に「参河国の犬頭糸(けんとうし)」がのっています。これは延喜(えんぎ)年間(901~923年)の話で次のようなあらすじです。
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参河国の犬頭糸
参河国のある所の郡司は、2人の妻に蚕を飼わせていた。たいそうもうけていたが、本妻の蚕が次々に死んでしまい家は寂れ郡司は立ち寄らなくなった。それでも妻は桑の葉に残っていた蚕を見つけ大事に育てた。
ところが妻が飼っていた白い犬がこの蚕を食べてしまった。妻は悲しんだが犬をやさしくいたわった。すると犬の鼻の穴からきれいな糸が次々に出てきて、4~5千両ほどの糸を巻き取ったところで犬は死んだ。妻は犬を桑の木の根元に埋めてとむらった。夫の郡司は妻からこの話を聞き、神仏の助けと悟り、妻と暮らすようになった。
郡司はこのことを国司に語り、国司は朝廷に報告した。それ以後、この絹糸は、「犬頭糸」の名で参河国から毎年朝廷へ献上されることになった。そして、この犬は、天皇の御召物となるためにこの世にあらわれたと語り伝えられた。
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犬頭糸を献上したのはどこの郡か『今昔物語』からは読み取れません。宝飯郡(ほいぐん=豊川市)に犬頭神社があります。碧海郡(岡崎市六ッ美)には糟目犬頭神社(かすめけんとうじんじゃ)、岡崎市大和町(だいわちょう)に桑子神社(くわこじんしゃ=犬頭神社)がありました。桑子神社跡地には、基壇と社殿の礎石があり、基壇に犬の形の石が置かれています。桑子神社は同じ大和町内の白鳥神社に合祀されました。

【写真77-1】桑子神社跡地(岡崎市大和町) 2023年12月
碧海郡は良質の絹糸を生産し、その絹糸は、「犬頭糸」とよばれ調(ちょう)として都に運ばれました。地方では絹糸を布に織ることはありませんでした。
⑤ 古井町井ノ池遺跡の灰釉陶器

【写真77-2】井ノ池の灰釉陶器(かいゆうとうき) 高さ14.7cm
『新編安城市史10 資料編』から (安城市教育委員会)
8~9世紀以後、猿投山のふもとの窯で焼かれた製品が高品質だと評価されました。古井町井ノ池遺跡出土の「水注(みずさし)」(写真)もそこで製造された一つです。安城市歴史博物館の常設展示室に陳列されています。
⑥ 三河の国の荘園、志貴荘下条
律令制度の下では、公地公民に基づき班田収授法が行われていましたが、口分田の不足や重い税から逃れようとする民もあり、743年(天平15)墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出されました。その後土地の私有化が進みました。
荘園は、奈良時代の末期以降、有力な貴族や寺社が私的に所有した土地のことです。不輸(ふゆ=租税免除)・不入(ふにゅう=役人の立入り調査なし)の特権が朝廷から与えられました。
志貴荘(しきのしょう)は安城のほかに碧南・高浜・岡崎の一部も荘園の範囲だったともいいます。参河国の国司となった藤原保相(ふじわらのやすすけ=在任1028~1031年)が志貴荘下条を領地とすることを朝廷に認めてもらいました。そして、藤原頼通(ふじわらのよりみち=摂政・関白)に寄進し代々藤原氏の荘園として受け継がれてきました。
1166年(仁安元)都の下級貴族だった平信範(たいらのぶのり)が日記『兵範記(へいはんき)』に次のように記しています。
| 三河国志貴荘下条の土地を治めるよう に、大納言(だいなごん)殿が安芸守(あきのかみ)を通じて知らせてこられた。なげかわしいことが多い中でうれしいことだ。これは亡くなられた方のおかげにちがいない。深くお敬(うやま)いしなければならない。 |
文中の大納言殿とは、平治の乱(1159年)で源氏に勝って大きな権力を得た平清盛である。亡くなられた方とは、平信範がつかえていた摂政の藤原基実(ふじわらのもとざね)で、清盛の娘盛子(もりこ)を妻にしていました。
1166年(永万2)基実が24歳で亡くなると、子の基通(もとみち)がまだ7歳だったので平清盛は、亡くなった次の日に平信範に志貴荘下条の支配を任せることにしました。荘園の支配が藤原氏から平家に移ったことが分かる出来事です。
1185年 (文治元) 平氏が滅んだ後、荘園は藤原氏(近衛家)にもどされ、関白の地位にあった近衛基嗣(このえもとつぐ)が1351年(観応2)京都に楞伽寺(りょうがじ)を建て、この寺の荘園としました。応仁の乱で寺が焼け荘園はなくなりました。
志貴荘下条は、上条を現在の上条町だとすると、下条はその南の安城町(東尾・西尾)・古井町から桜井町にかけてのうちだと考えられます。
⑦ 印内のお薬師さん

【写真78-1】印内薬師(桜井町印内)
桜井町印内(いない)の人々が大切に守り続けてきた「印内のお薬師さん」は、薬師如来坐像*6(やくしにょらいざぞう)です。平安時代末期保元・平治の乱のころの制作で、高さが143cm巨大な木像です。愛知県指定の文化財です。印内薬師は、桜井神社の西、鉄筋コンクリート製のお堂に安置されています。
かつて桜井神社には神宮寺(じんぐうじ)があったとのことです。この印内薬師が置かれた寺院はどこだったのか確定できませんが、桜井神社の神宮寺、神社の南の「塔ノ元(とうのもと)」、古井町憶念寺の付近などが考えられます。
古井町井ノ池 7 番地付近で布目瓦の小片が見つかりました。この付近は、「本神」です。地元の人々は「ほんじん」ではなく「ほんじ」と言います。古井神社の古書類に「本地」の表記があります。本地は、奈良・平安時代に説かれた「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」に関わる用語です。
仏と神々は根本的には同じで、仏と菩薩が本来の姿(本地)で日本の神々は仮の姿(権現=ごんげん)であるとの考えです。日本の神々は国内の実情に合わせて仏(本地)が姿を変えて現れてくれたもの(垂迹)とされました。
古井町の「本神」はこの地点に仏教寺院があったことを伝える地名です。