|
お知らせ
|
(といあわせ:古井町内会事務所〔火曜~土曜日午前中〕電話 0566-76-3430)
【印刷用PDF】
下のリンクから、回覧板のPDFファイルが閲覧・印刷・保存できます。
より鮮明に閲覧・印刷・保存したい場合にご利用ください。
PDFファイルを閲覧・印刷いただくためには、Adobe Acrobat Readerが必要です。
PDFが表示されない場合は下記よりダウンロードしてください。
Adobe Acrobat Readerのダウンロード(無償)は、アドビシステムズへ。
|
お知らせ
|
(といあわせ:古井町内会事務所〔火曜~土曜日午前中〕電話 0566-76-3430)
【印刷用PDF】
下のリンクから、回覧板のPDFファイルが閲覧・印刷・保存できます。
より鮮明に閲覧・印刷・保存したい場合にご利用ください。
PDFファイルを閲覧・印刷いただくためには、Adobe Acrobat Readerが必要です。
PDFが表示されない場合は下記よりダウンロードしてください。
Adobe Acrobat Readerのダウンロード(無償)は、アドビシステムズへ。
※ このブログ記事は冊子『古井の歴史案内』を一章ごとに順不同で紹介するものです。
※ みぎのリンクからほかの章にとぶことができます。 【ブログ版目次】
※ 写真番号は冊子のページとページ内の番号を表示しております。
※ 赤字は冊子の記述を修正加筆したものです。
| 古井の歴史について案内してきましたが、歴史はこれからも続きます。そして私たちが生きている今もその歴史の1シーンです。そこで今、古井に住む人々による座談会を行い、古井の今と未来について語り合いました。それをまとめて未来の古井の人々に、私たちのメッセージとして発信します。 |
| (1) はじめに (2) 座談会発言集 (3) アンケートのまとめ (4) むすび 〔座談会の参加者一覧〕 【資料1】古井町内会の会員構成 【資料2】古井町内会組織と活動 【資料3】古井町八景 |
① いきさつ
古井神社社殿の西にある石碑に1940年の古井の様子が記されており、大変興味深いものがあります。これにならって、今(2023年)の古井の様子を未来の人たちに向け、メッセージとして残そうと思い立ちました。そこで古井の各地区、各層の方に集まってもらい座談会を行いました。
② 座談会の概要
③ まとめ
① 古井生まれ、子どものころの思い出
「小学5年で終戦を迎えた。南中の第1回生で入学時に校舎ができておらず、錦町小で授業をうけた。中学の時に農地改革があり、覚えている」男性、88歳、1935生、本神
「お寺の裏から名鉄線、新幹線が見えたが、今は家が建ち全然見えなくなった。古井神社の西側は一面、田んぼでよく遊んでいた」男性、61歳、1962生、亀山
「新幹線の騒音がすごかった、親類のおばさんが地震と間違え縁側から飛び出してけがをしたことがあった。団塊世代で子どもの数が多く、小学校は松・竹・梅の3組だった」男性、76歳、1948生、中本神
② 転入の方、その頃の思い出と感想
「20歳で嫁いできた。家は平屋で狭く、鶏と豚を飼っていた。台所は狭く、煮炊きは土間で、焚きもんは、わら・豆殻をくべていた」女性、83歳、1940生、中本神
「21歳で嫁ぎ、1976年に大久後に引っ越した。低地で清水がわいており、水が切れない田んぼだった。うしガエルの声がうるさかった」女性、75歳、1948生、大久後
「31歳の時に土地を購入し新築した。一坪1万円だった。井戸を利用、道路は未舗装。夏は蚊帳(かや)をつり、カエルの声がにぎやかだった」男性、86歳、1937生、上寺
「26歳に夫の転勤で古井に来た。家の周りから古井駅までずっと田んぼ。スーパーマーケットもなく、買い物が不便だった」女性、77歳、1946生、大久後
「1974年に27歳で床屋を開業した。農協や向かいの商店の建物が古めかしく今となってはなつかしい。水道代がタダで助かった」男性、76歳、1946生、鍋屋町
「25歳で嫁いできた。その後に家の周りの田畑のほとんどが住宅に変わった」
女性、54歳、1969生、中本神
「出産を機に28歳で同居、近くの店舗といえば、酒屋兼雑貨店(亀屋)が1軒だけだった」
女性、59歳、1963生、西川
「29歳で入居した。近くの田んぼで、子どもと一緒におたまじゃくしやザリガニ取りして遊んだ」
女性、59歳、1963生、亀山
「32歳で新居を構えた。都市部に比べて変化がゆるやか。天災人災少なく、近所付き合いが適度でバランスが良く住みやすい土地柄と思う」男性、50歳、1973生、中本神
③ 子どもの頃と比べて特に変わった事
「昔は同年だけでなく、年上や下の子とよく遊んだ。寺社等の外遊びが多かった。今はゲーム機やスマホでの室内遊びが多い」男性、74歳、1949生、古井新町
「家や人が増え、密になった。公園、防犯灯、ミラー、ごみステーション等整備され、住みやすい町になった」
男性、68歳、1955生、本神
「古井町内でも市街化調整区域側なので変化がゆっくり、畑にアパートや新築住宅が少し建った程度、ただし旧家屋はほとんど建て替わった」男性、68歳、1955生、西川
「畑や田んぼが建物や公園になった。アパートに住む外国人が増えたがこの人たちとの接点がない」
女性、16歳、2007生、本神
「盆踊りや運動会など、大勢が集まる行事が減ってさみしい」男性、48歳、1975生、本神
「小さいころは草むら、通学路途中の空家・空地など遊べる場所が多かったが、今は整備されて家が建ちきれいになった。少しさみしい」女性、49歳、1974生、東川
「川や田んぼが少し汚くなった」女性、15歳、2007生、東川
④ 転入の頃と比べて今の感想
「38歳で、新居を建てた。周辺には店がなく買い物が不便で医者も遠かった。今はスーパー、医療機関が増え、便利で安心して住める」女性、72歳、1951生、亀山
「36歳で入居、当時は友達がおらず、相談相手がなく苦労した。その後、子ども会行事、ママ友等で知り合いができて力になった」女性、46歳、1977生、鍋屋町
「入居した頃は何もなかったが、スーパー・保育園・小中学校・病院ができて便利になった。ただし今も近くに飲食店がないのは残念」男性、68歳、1955生、西川
⑤ 防犯、防災、生活環境について
「夜間、道路が暗いので街灯を増やしてほしい」女性、49歳、1974生、東川
「古井新町では防犯カメラの設置が進んでいる」男性、古井新町
「あんくるバスの更生病院での乗り継ぎ時間が短すぎる。高齢者、身障者への配慮を望みたい」
男性、62歳、1961生、東川
「ペット犬の散歩が多くなった。マナーの悪い人が多い」女性、52歳、1971生、本神
「野良猫(のらねこ)対策でNPOに相談し、不妊手術を進めた」男性、古井住宅
「防災訓練で自転車や車がつかえない高齢者の移動を考えた訓練が必要」男性、80歳、1943生、上寺
「防災訓練や学習を毎年行うことが大事」男性、72歳、1951生、本神
「耐震不足の家屋の実態調査と耐震診断の実施を防災計画に織り込む。無料診断を活用するとよい」
男性、73歳、1950生、東川
「防災計画の作成、ハザードマップを作成した。今年は車中泊避難訓練を予定している」男性、古井新町
⑥ 交通環境について
「のどかな地域で暮らしやすかったが、今や住宅が密集、交通状況も悪く、事故の不安がある」
男性、77歳、1946生、亀山
「町内道路の歩道が狭い・ないところもある」男性、49歳、1974生、東川
「町内の道路の整備は人が中心、車両優先にならぬよう」男性、72歳、1951生、本神
「町内を通過する車が多いので危ない」男性、66歳、1957生、亀山
「道路が狭く危険、次世代につなぐ町づくりのため区画整理などの検討会を町内で開いてはどうか」
男性、58歳、1965生、本神
「住宅内の中心道路の横断歩道に歩行者信号の設置を希望している。去年死亡事故が発生した」男性、古井住宅
「資源回収等で小中学生も町内行事への貢献を実感する」男性、15歳、2008生、中本神
「安城学園生徒会で福島ひまわりプロジェクトに参画している。古井の環境保全会に協力していただきありがたかった」女性、17歳、2005生、東川
「共働きが多いので、子育てへのPTA、子ども会等、町内会組織での支援がうれしい。これからも期待している。高齢者が元気になる行事があるのでよい」女性、32歳、1991生、鍋屋町
「古井町は町内会加入率が極めて高く誇らしい。町内会にすすんで参画する意識を育てていく運営が今後も大切だ」男性、74歳、1949生、本神
「アパート等に住む外国人の方が増えている。町内会を知ってもらうことが大事である。つながる方法を考えたい」女性、64歳、1959生、鍋屋町
「人口の急増で細かな意見が届きにくい。多くの人々にとって意見等を出しやすい開かれた町内であってほしい」男性、82歳、1941生、北本神
「一人暮らしの高齢者が増えている。高齢者と児童・幼児との交流の機会を増やして元気になってもらうのはどうか」女性、69歳、1954生、亀山
「ボッチャ大会を去年から始め、好評だった。古希の会・ふれあいサロン等、公民館活動が盛況」
男性、古井新町
「古井でも一人暮らしや高齢者等を対象にサロン(喫茶スマイル)を始めた」男性、古井町
「町内会の事務員をしている。今でも町内への入居者があり、町内会への入会をお勧めしている。道路、ゴミステーションの相談事が多い」女性、古井町
⑦ 未来を語る 30~50年後を想像して 生活環境について
「碧海古井駅前の道路拡幅と駅前広場が完成。あんくるバスの利便性が向上し市役所、病院へのアクセスが充実している」男性、57歳、1966生、亀山
「安全パトや見守り活動の継続で安全安心を維持。農家人口減少で、集落周りの耕作放棄地が増加」
男性、70歳、1953生、中本神
「遊休地が増加するが、緑化、花を植える活動(ボランティア)で良い環境が保たれている」
女性、70歳、1953生、中本神
「自分の子どもたち世代の遺産相続で、田畑の集中保有・継続は困難になる。分散が心配である」
男性、66歳、1956生、亀山
「大雨対策の排水路更新は完成しているが町内の赤道(あかみち)の保全管理(草刈り・路肩維持)が心配」
男性、69歳、1954生、鍋屋町
「農作業の自動化、無人化が発達して、人の労力は低頻度、限られた作業だけになる。デジタル化が進んで、経営が楽になっている」男性、40歳、1983生、中本神
⑧ 少子化・高齢化問題について
「仕事、教育、交通等あらゆるところでAI利用社会に。少子高齢化が進行していると思うが、自分は結婚し家庭を持っているだろう」男性、14歳、2010生、中本神
「少子化対策として、学費・医療費の無償化等の子どもの養育費用の負担軽減策が浸透している」
女性、50歳、1973生、本神
「コミュニティスクールの推進(知識、経験、技能のある方の協働的参画で学校と住民が力を合わせる、地域と共にある学校)で子どもと高齢者の交流活性化」男性、社協
「高齢者もPC・スマホを使いこなしている。スマホ等IT機器による回覧板等の情報伝達で、紙の削減が実現」
女性、46歳、1978生、中本神
「健康年齢が高齢化、就業年齢も高齢化し、100歳でも働く元気な高齢者が現れる」
女性、77歳、1946生、鍋屋町
*安祥福祉センター(社協)と共同実施
① 困りごとの分類
ベスト3は以下のとおりでした(3位は生活環境と防災が同率でした)。
② 古井を良くするための意見
本アンケートでは、良くするための意見も記載していただきましたので、以下に紹介します。
*困りごと、 その改善意見をうけて
古井は1970年代からの約50年で大きく変化しながらも、おおむね暮らしやすい地域との意見です。しかし道が狭い、夜道が暗い、事故犯罪のリスクで防犯カメラが必要等の要望事項も多くありました。改善策として、安城の市街地のように区画整理で作り替えてしまう方法もありますが、簡単にできるとは思えません。今回の座談会が、地元への関心の高まりと、町史で歴史を振り返りそして広い視野で、これからのくらし方と町づくりを考える住民の会の発足の契機になれたら幸いと思います。
A~Fの6班に分かれて座談会を行いました。
| 氏名 | 組名 | 補足 |
|---|---|---|
| A班(男子壮熟年グループ) | ||
| 松下不二男 | 鍋屋町東 | 2回目:加藤千典 |
| 稲垣作 | 古井新町 | |
| 植村真一 | 上寺東 | |
| 杉浦茂之 | 南本神 | |
| 小島英二 | 亀山東 | 保福寺 |
| 杉浦正之 | 南本神 | 司会 |
| 大澤松男*1 | 上寺西 | アンケート参加 |
| B班(男子壮年グループ) | ||
| 伊藤洋一 | 亀山東 | |
| 稲垣秀夫 | 東川 | |
| 八木鐘次 | 亀山西 | |
| 白石博 | 大久後東 | |
| 稲垣実 | 南本神 | |
| 岩瀬昭彦 | 亀山東 | 司会 |
| 石原幸広 | 西川 | アンケート参加 |
| 岩瀬隆広 | 東中本神 | アンケート参加 |
| 廣村幹利*2 | 南本神 | アンケート参加 |
| C班(男子壮年グループ) | ||
| 待田和宏 | 亀山東 | |
| 寺田覚 | 古井新町 | |
| 斎藤良二 | 亀山東 | |
| 市川直治 | 鍋屋町東 | |
| 青木洋児 | 古井住宅 | |
| 伊與田一根*3 | 東中本神 | |
| 太田豊彦 | 東川 | 司会 |
| 大河内岩根 | 鍋屋町東 | アンケート参加 |
| 太田易志 | 東川 | アンケート参加 |
| D班(男子青成年グループ) | ||
| 中村羊大 | 東中本神 | |
| 中村圭介 | 東中本神 | |
| 石原太一 | 東中本神 | |
| 待田智 | 亀山東 | |
| 石原資郎 | 西川 | |
| 岩瀬英一郎 | 東中本神 | |
| 大河内敏博 | 東川 | 司会 |
| 嵐武琉 | 北本神 | アンケート参加 |
| E班(女子成壮年グループ) | ||
| 石原加寿美 | 西川 | |
| 杉浦清美 | 北本神 | |
| 石原孝子 | 亀山東 | |
| 永田紋 | 西中本神 | |
| 下條清美*4 | 亀山東 | |
| 太田恵美子 | 大久後西 | |
| 石川美恵子 | 亀山東 | |
| 鈴木滋子 | 大久後東 | |
| 松原智子 | 東中本神 | |
| 辻端陽子 | 大久後東 | |
| 細井嘉乃 | 鍋屋町東 | 司会 |
| 岩瀬元子 | 東中本神 | アンケート参加 |
| F班(女子青成年グループ) | ||
| 廣村萌乃*5 | 南本神 | |
| 宮宅あい子 | 鍋屋町東 | |
| 中元真衣 | 東川 | |
| 中元颯南 | 東川 | |
| 嵐雅子 | 北本神 | |
| 山本靖子 | 南本神 | 憶念寺 |
| 髙田奈央*6 | 鍋屋町東 | |
| 岩瀬優佳 | 東中本神 | |
| 加藤ゆきの | 東川 | |
| 加藤さやか | 東川 | |
| 稲垣さよ子 | 西川 | 司会 |
| 委員 | ||
| 天野暢保 | 上寺東 | 歴史研究会 |
| 杉浦時男 | 北本神 | 歴史研究会 |
| 上地恵英 | 安城 | 歴史研究会 |
| 石原則行 | 東中本神 | 歴史研究会 |
| 稲垣光金 | 東中本神 | 町史発行委員会 |
| 井上保幸 | 西川 | 町史発行委員会 |
| 杉本正美 | 南本神 | JAあいち中央古井支店 |
| 2回目の進行役 | ||
| 上之よし子 | A班 | 安城市地域包括支援センター松井 |
| 古田真奈美 | B班 | 安城市地域包括支援センター松井 |
| 小山貴也 | C班 | 安城市社会福祉協議会 |
| 山田啓史 | D班 | 安城市役所高齢福祉課 |
| 杉浦七海 | E班 | 安城市社会福祉協議会 生活コーディネータ |
| 夏目清香 | F班 | 安城市社会福祉協議会 生活コーディネータ |
|

(左)【画像135-1】組別の世帯数分布
(右)【画像135-2】区分別の世帯数と会費収入〔A:農家(農地保有) B:非農家持ち家 C:賃貸〕

【画像135-3】古井町内会運営体制組織図 【画像135-4】2023年度古井町内会年間行事計画
終戦時200戸程の純農村であった古井でしたが、今日では1,600戸以上の世帯が住むベッドタウンとなりました。そして通常の住宅地とは異なり、寺社が多く、農村時代の面影や周辺には田園が広がっています。そんな古井八景を選んでみました。(注)寺社と碑については特集記事に取り上げましたので除外しています。
① 御嶽山、鹿乗川流域の田園風景
古井と東尾の間に広がる田んぼは2005年の土地改良で、畔(あぜ)をなくして1ha区画にしました。
田んぼの向こうには安城南部小学校、安祥城址、歴史博物館、そして冬になると雪をかぶった御嶽山を臨むことができます。
② 土地改良50周年記念公園のさくら並木
2003年に西鹿乗川の野辺橋下流の右岸に設置されました。毎年4月になると川の右岸沿いの八重桜並木がとてもきれいです。ここから見える新幹線は防音壁が無いので「のぞみ」が通過するとシャッターチャンスになります。古井地区環境保全会が定期的に除草、剪定をしています。
③ マンション等ビル群を臨む風景
古井の北東端、県道岡崎・西尾線から西を見ると、古井の変貌の象徴ともいえるマンション群が望めます。その右側には安城市街のビル群がひかえ、奥には更生病院の雄姿があり、地元生まれの者にとっては隔世の感の風景です。
【写真136-5】2024年5月
④ 大型ほ場と大型機械による収穫風景
土地改良事業の進展にともない、2000年を過ぎるころには古井の田んぼの大半は大規模営農家へ耕作を委託されるようになりました。今日では古井の田んぼの稲作、転作(大豆、麦)のほとんどは、農地中間管理機構方式を運用して鈴木ファームが行っています。麦の収穫時期の古井の周りの田んぼは、大型コンバインと麦の黄金と苗の緑が映える風景となります(冊子143ページ参照)。
⑤ こども運動広場の横を流れる阿原川と新幹線
1992年にこども運動広場が西川より現在の釈迦山に移転しました。子ども会のソフト、フットの練習はもちろん、グラウンドゴルフを愛好するシニアの皆さんの交歓の場所となっています。秋には町内グラウンドゴルフ大会が行われます。西に憶念寺、東に阿原川(堀内川)が流れ、北に新幹線が走っています。
⑥ 古井公民館とJA古井支店及び南倉庫
公民館は2001年に建設され、古井支店は2010年に新装オープンしました。南倉庫は古く古井産業組合事務所の移転時のころ(1935年)の建物と思われます。支店まわりの広場は、毎年6月に町内会イベント「ふれあい広場」でにぎわいます(冊子128ページ参照)。
⑦ 古井駅周辺の通勤風景
1926年(大正15)に開業した碧海古井駅は、ずっと改札口もない無人駅でした。開業記念に植えたさくらが毎年満開の花を咲かせ ていました。
2007年に自動改札の駅舎ができた後に、さくらは寿命を終えました。毎朝7時台は通勤客と通勤マイカーで駅前道路が大変混雑します。古井3町の表玄関にふさわしい整備がなされることを祈念して写真を残します。

【写真137-4】2024年6月 【写真137-5】1940年ころの古井駅
⑧ 三ツ塚公園
2020年3月に古井町初の都市型公園として完成しました。古井の地名の由来となった古井戸と三ツ塚古墳のモニュメントが特徴です。設計に際してワークショップを開催し住民のアイデアを取り入れて、四季折々に花が楽しめる公園となりました。公園愛護会(ミエール会)が毎月初めに草取りなどの手入れを行っています。
番外:堀内公園と鹿乗川コスモスまつり
堀内公園は古井町の南隣に1992年に開園。四季折々の草花を愛でながらの散策がとても心地よい公園です。北端の鹿乗川の堤防周辺では保全会の世話で毎年コスモス畑がオープンし、景観と秋の味覚を楽しむ「コスモスまつり」が行われます。

【写真137-8、9】西鹿乗川拡幅用地でのコスモスまつり 2022年10月
|
★ 資源回収へのご協力ありがとうございました! お知らせ
|
(といあわせ:古井町内会事務所〔火曜~土曜日午前中〕電話 0566-76-3430)
【印刷用PDF】
下のリンクから、回覧板のPDFファイルが閲覧・印刷・保存できます。
より鮮明に閲覧・印刷・保存したい場合にご利用ください。
PDFファイルを閲覧・印刷いただくためには、Adobe Acrobat Readerが必要です。
PDFが表示されない場合は下記よりダウンロードしてください。
Adobe Acrobat Readerのダウンロード(無償)は、アドビシステムズへ。
※ このブログ記事は冊子『古井の歴史案内』を一章ごとに順不同で紹介するものです。
※ みぎのリンクからほかの章にとぶことができます。 【ブログ版目次】
※ 写真番号は冊子のページとページ内の番号を表示しております。
※ 赤字は冊子の記述を修正加筆したものです。
| 鎌倉幕府の命令が三河に届く時代になります。安達氏の後、代々足利氏が三河の守護につきました。また、室町幕府になっても足利一族の細川氏が守護となり三河を治めました。1467年(応仁元)応仁の乱以降、室町幕府の力が地方におよばなくなり、戦国時代となります。西三河では松平氏が安祥城を拠点に勢力を伸ばし、一向一揆の難局を乗り越えて次の時代に入ります。 |
| (1) 新しい仏教が三河に (2) 松平氏の拡大と一向一揆 |
① 三河の国の守護は足利氏
1185年(元暦2/文治元)源頼朝は平氏を滅ぼし、朝廷から全国に守護・地頭を置くことを認めてもらいました。歴史の教科書では、この年からを鎌倉時代としています。京都と鎌倉に政治勢力があり、そのさかいが三河でした。
三河の最初の守護は、安達盛長(あだちもりなが)でした。盛長は、源頼朝(みなもとのよりとも)からの信頼が厚かった鎌倉武士(御家人)の一人でした。
1221年(承久3)、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)のよびかけで鎌倉幕府討伐の兵があがりました。承久の乱(じょうきゅうのらん)です。結果は幕府側の勝利で、上皇は隠岐島(おきのしま)へ流罪(るざい)、上皇側の武士は厳しく処刑、荘園は恩賞として幕府の御家人に与えられました。この乱で戦功のあった下野国(しもつけのくに=栃木県)の有力御家人(ごけにん)の足利義氏(あしかがよしうじ)が三河の国の守護につきました。足利尊氏まで6代の足利氏の惣領(そうりょう)が三河国の守護職を務めました。足利氏は一族を三河各地に配置して支配を固めました。その一族は仁木氏・細川氏・一色氏・今川氏です。守護所は明大寺・六所神社あたりですが、志貴荘を取り囲むように一族を配置しました。
② 新しい仏教のはじまり
平安時代の仏教で、最澄(さいちょう)が開いた天台宗(てんだいしゅう)や空海(くうかい)の真言宗(しんごんしゅう)は、都の政治から距離を置いた学問と修行に重きを置くものでした。
平安時代の終わりごろ、極楽浄土(ごくらくじょうど)への往生(おうじょう)を願う浄土信仰が貴族の間で広まりました。やがて、戦乱や飢きん(ききん)を乗り越えたくましく生きる民衆や、自分の運命を切り開いてきた武士などの心のよりどころとして、新しい仏教がはじまりました。
法然(ほうねん)は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を称えるだけで誰でも極楽浄土に往生できるという「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の教えを説いて「浄土宗(じょうどしゅう)」をはじめました。鎌倉時代に入って、法然の弟子である親鸞(しんらん)は、「専修念仏」の教えをひきつぎ、のちに「浄土真宗(じょうどしんしゅう=真宗/一向宗)」の祖とされるようになりました。
日蓮(にちれん)は、法華経(ほけきょう)の題目「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を称えれば人も国家も救われると説き「法華宗」の祖となりました。
中国(宋)にわたって修行した栄西(えいさい)と道元(どうげん)は「禅宗(ぜんしゅう)」を広めました。禅宗は、坐禅*1によって悟りを得ようとするもので、武士の気風によく合い、幕府の保護もあり発展しました。栄西は臨済宗(りんざいしゅう)、道元は曹洞宗(そうとうしゅう)を開きました。「時宗(じしゅう)」の開祖一遍(いっぺん)は、常に臨終(りんじゅう)の時と心得て念仏せよと説きました。また、一遍により踊念仏(おどりねんぶつ)がはじまりました。
古井町内の憶念寺と願力寺は浄土真宗、保福寺は曹洞宗、法蔵寺は浄土宗です。天台宗や真言宗はすたれたわけではなく、熱心な信者も多く、脈々と現代にも受け継がれています。
③ 三河真宗の起源
親鸞(1173~1262年)は、9歳で出家(しゅっけ)し比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で20年間厳しい修行と学問に励みましたが苦悩の末に比叡山をおりました。そして、聖徳太子ゆかりの六角堂にこもりました。95日目の明け方に受けた夢告(むこく)に導かれて法然の弟子となり、念仏者の道を歩みはじめました。しかし、法然の教えが危険思想と見なされ、法然は讃岐(さぬき=香川県)に、親鸞は越後(えちご=新潟県)に流罪(るざい)となりました。親鸞35歳の時でした。その5年後流罪は赦(ゆる)されましたが、親鸞は京都にもどらず越後から常陸(ひたち=茨城県)に移り布教活動をしました。
明治期までは、三河に浄土真宗を伝えたのは親鸞自身であるとされていました。これを柳堂伝説(やなぎどうでんせつ)といいます。しかし、1910年(明治43)古井生ま れの佐々木月樵(ささきげっしょう)が南北朝時代(1364年(貞治3)成立)の史料『三河念仏相承日記(みかわねんぶつそうじょうにっき)』を発見し、親鸞自身ではなく、下野国高田(たかだ/現在の栃木県真岡市(もおかし)高田)の真仏(しんぶつ)・顕智(けんち)・専信房専海(せんしんぼうせんかい)らが 1256年(建長8)に聖徳太子を祀る太子堂(たいしどう)である、矢作の薬師寺柳堂で説法したのが三河真宗のはじめとみて、功労者は高田派系の人々であり、柳堂伝説は史実ではないことを明らかにしました。
岡崎市の桑子(くわこ)の妙源寺(みょうげんじ)・菅生(すごう)の満性寺(まんしょうじ)は、今も太子堂(たいしどう)を備える寺院です。野寺の本證寺*2や古井の憶念寺は真宗大谷派の寺院ですが、かつては太子堂がありました。初期三河真宗が高田派系だった証拠の一部です。
佐々木月樵は旧矢作町上佐々木の上宮寺の住職です。古井の願力寺から上宮寺に婿入り(むこいり)し、大谷大学第3代学長になりました。
また、憶念寺に縁のある刈谷市元町の専光寺の住職であり大谷大学教授の日下無倫(くさかむりん)も『三河念仏相承日記』の研究を深め、その研究の成果を発表しました。

【写真80-2】安城御影(東本願寺蔵) 『特別展 親鸞聖人像の原点 安城御影』から 縦128.7cm 横41.0cm
「安城御影(あんじょうごえい/あんじょうみえい)」は、親鸞が83歳の時に描かれたもので、西本願寺と東本願寺にそれぞれ所蔵されています。どちらも親鸞からくだされたものです。絵像の上部は大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)、下部は正信偈(しょうしんげ)で親鸞直筆です。安城の名で全国に知られていますが、それは画像を親鸞から授与された専信房専海とその子孫が安城にいたからです。

【画像80-3】安城御影模式図(東本願寺本をもとに作図) 『安城市歴史博物館特別展』から
④ 蓮如の時代の三河真宗
蓮如(れんにょ)の時代に三河真宗は大きく変わります。蓮如(1415~1499年)は親鸞から数えて直系の第8世です。高田派は、関東・北陸・東海で信者を多くもっていました。蓮如は本願寺派として精力的に布教活動をしました。
蓮如の時代は、室町時代の中ごろに、土一揆(つちいっき/どいっき)や・国一揆・応仁の乱(1467~1477年)があり、農村や都市で中世の自治が芽生えた時代でした。有力な農民は古い荘園制度から抜け出し新しい生き方を求めていました。人々は、蓮如の教えを受け入れて本願寺派の信者となりました。
蓮如は、親鸞の教えを分かりやすく説き『南無阿弥陀仏』と書いた名号を多くの信者に授けました。また、『御文(おふみ)』(手紙形式の法話)を各地の信者集団に送り、教えを伝えました。
蓮如を助けたのが佐々木上宮寺の如光(にょこう)です。古井の行専も如光の弟子のひとりです。京都では1465年(寛正6)比叡山の僧徒が多勢で押し寄せてきて大谷本願寺を破壊しました。その時如光は蓮如に「比叡山が欲しいのは金です。金は三河から足で踏ませるほど運びましょう。」と言ったそうです。
本願寺派では、寺院や道場に『方便法身尊像(ほうべんほっしんそんぞう)』という阿弥陀如来立像を描いた絵像本尊が授けられました。高田派から本願寺派に変わった寺院としては、上宮寺・本證寺*3(ほんしょうじ)・勝鬘寺(しょうまんじ)・明法寺(みょうほうじ)などが知られています。
⑤ 憶念寺
古井神社に『古井村名 憶念寺桜井白山神社』に関する文書があります。その記述内容は次のようになります。
ア)聖徳太子が富士山へ向かう途中三河の古井・桜井あたりを通りかかりました。桜の林があり、そこに湧き出る泉の池の水面に桜の花びらが浮かんでいるのを見て、仏教を広めるのに良いところだと言い、お堂を立て「桜井寺」と名付けました。
イ)その後、第1世を聖徳太子として第9世の知祐(ちゆう)が比叡山で学び天台宗の寺にしました。
ウ)聖武天皇のころ、名僧行基(ぎょうき)制作の釈迦如来像を桜井寺で祀りました。
エ)源頼政(みなもとのよりまさ)の孫の太田駿河守広綱(おおたするがのかみひろつな)は古井に移り住み荒れ果てた境内を再興しました。
オ)第33世の醍醐坊広円(だいごぼうこうえん)が、親鸞に帰依(きえ)して、「浄土真宗」となり、憶念寺を開きました。
カ)醍醐坊広円から数えて10代目の円応(えんのう)が蓮如の教えを受け高田派から本願寺派の寺院になりました。
今の憶念寺は真宗大谷派のお寺です。徳川家康のころ、元の本願寺派の「お西」(西本願寺)と、真宗大谷派の「お東」(東本願寺)に分かれました。なお東本願寺を真宗本廟(しんしゅうほんびょう)といいます。
聖徳太子が古井、桜井あたりに来たのは西暦600年、太子27歳の時ですが、史実とするだけの証拠が見つかっていません。ただ、「印内のお薬師さん」で述べた、憶念寺の近くで布目瓦の発見、字名の本神が本地垂迹説からの地名だという考察から、古井には、憶念寺ができるよりも前に寺院があったと考えられます。
真宗寺院では、基本的に本堂内の余間(よま)に聖徳太子孝養像(こうようぞう)(絵像)が掛けられています。かつて憶念寺では境内に太子堂がありました。
⑥ 願力寺
上は願力寺境内にある「行専」の墓碑です。1834年(天保5)第14代住職円能(えんのう)が建立しました。裏側の碑文の要点は次のとおりです。
ア)願力寺の開基は教賢院行専(きょうけんいんぎょうせん)である。
イ)行専は尾張源氏の直系の子孫で、俗名は山田右五郎重里(しげさと)である。重里は、徳川家の仁風を慕って安祥城に仕えた武士の一人であった。
ウ)行専は、兄信慶(しんけい)とともに蓮如上人の門弟になり、難行道から易行道に入った(浄土真宗に帰依)。
エ)行専は古井の西にあった天台宗の廃寺を再興して専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道場とした。
オ)行専は1490年(延徳2)4月4日に没し、村人は火葬して墓をつくり塚に松を植えた。
上記エの村の西の方の廃寺は上寺にあったと考えられます。これに関連して、願力寺に 、『常照院由緒(じょうしょういんゆいしょ)』という古文書があります。次のような内容です。
廃寺になった天台宗の寺の名称が「常照院」であり、その開基は存戒(ぞんかい)であると記されています。存戒(912~985)は、10世紀ごろの人ですからその頃に常照院ができたことになります。本堂など建物が焼失しました。
願力寺の寺宝の一つに『方便法身尊像(ほうべんほっしんそんぞう)』の軸があります。
実如(1458~1525年)は、蓮如の次の第9世です。この軸は、1515年(永正12)に本山から授けられました。本願寺本山から公認された道場であることの証(あかし)です。
① 松平氏の勢力拡大
豊田市松平町、六所山(611m)の西、巴川の支流が流れるなだらかな丘陵に、松平氏の始祖と徳川家康を祀る「松平東照宮」・「高月院(こうげついん)」・初代「親氏(ちかうじ)」の銅像があります。この山里が松平発祥の地です。2代目泰親(やすちか)が1421年(応永28)に岩津城を構えました。岩津城は、岩津天満宮の西、矢作川両岸に広がる平野を見渡すことができます。そして、3代目の松平信光(のぶみつ)が三河に勢力を拡大する拠点としました。信光がねらいを定めたのが矢作川の右岸の安祥城(あんしょうじょう)でした。安祥城は志貴荘の地頭だった和田遠江守親平(わだとおとうみのかみちかひら)の築城という説があります。松平信光がこの城をうばう様子が『三河物語』に次のように書かれています。
| 安城の城を攻め取ろうとして、踊りの行列を豪華にしたてて、街道を進むふりをして、安城より14、15町ほど西の野へ行く。鉦・太鼓・笛・鼓を打ちはやし、一生懸命に踊った。すると町の人は「なにかわからないが、西の野の踊りはおもしろそうだから見に行こう。」と、城も家も開け放って、男も女ものこらず出かけた。松平信光と兵は、思いどおりだれもいないお城に入り、そのまま住みついた。城は三男親忠に譲った。 |
盆踊りにおびき出されて城をうばわれたわけです。1471年(文明3)のことです(※ 1475年の説もあります)。この失敗の教訓として安城の郷では近年まで盆踊りをしなかったそうです。14、15町ほど西の野は、現在の百石町(ひゃっこくちょう)の辺りです。

【写真83-2】江戸時代前期の安祥城古図(広島市立中央図書館浅野文庫所蔵)
| 安祥城は土塁で囲まれ、周りはどろ田です。八幡社境内から古井の集落が見えます。また、遠く吉良一族も見すえた城だったといわれます。 |
| 1440年(永享12) 応仁の乱のころ 1471年(文明3) 1530年ころ 1535年(天文4) 同年 同年 1540年(天文9) 1549年(天文18) 1562年(永禄5) |
和田氏築城説あり 西軍山名・一色側の城 松平信光が占領 親忠が安城松平初代となる 甲山寺などを岡崎に移す 清康を安城四代岡崎殿と呼ぶ 清康が暗殺される 桜井松平が岡崎城に入る 織田信秀が占領 今川氏が占領 清州同盟により廃城 |
松平信光から安祥城を譲り受けた親ちかただ忠が安城松平の初代です。親忠は、1493年(明応2)第2次井田野の合戦(いだののかっせん)で、惣領(そうりょう)の岩津松平家にかわって勝ちました。また、1506年(永正3)今川氏が攻めてきた永正三河大乱(えいしょうみかわのたいらん)で岩津松平家の犠牲者が多く出る中で、安城松平2代目長親(ながちか)が活躍し今川勢を退けました。親忠と長親の活躍で安城松平は、惣領家としての地位を確かなものにしました。初代親忠は、大樹寺(だいじゅうじ)を建て菩提寺(ぼだいじ)としました。
3代信忠(のぶただ)は、三河物語に「家臣が恐れおののきて慕うものなし」とありますが、近頃は、信忠・清康に対する評価が変わってきています。信忠は34歳で嫡男(ちゃくなん)の清康に代をゆずりました。その時、清康(きよやす)は13歳でした。清康は、安祥城と岡崎城に住みました。安祥城のまわりの社寺を岡崎に移しました。清康は、各地に兵を送り西三河をほぼ統一しました。清康は、1535年(天文4)尾張に侵攻し織田信秀(おだのぶひで=信長の父)と守山で対峙(たいじ)しました。しかし、陣中にて家臣に暗殺(あんさつ)されました。25歳でした。

【写真84-1】松平清康公(ブロンズ像) 安城市歴史博物館エントランス壁面に設置
| (1) 親氏 | 豊田松平郷 |
| (2) 泰親 | |
| (3) 信光 | 岡崎岩津城 |
| 1 親忠 | 安城松平4代 |
| 2 長親(長忠) | |
| 3 信忠 | |
| 4 清康 | |
| 5 広忠 | |
| 6 家康 | 徳川初代 |
| (1)~(3)は江戸時代の史料による代々 1~6は大樹寺史料をもとにした代々 |
|
② 安城合戦
安城合戦は、松平広忠(ひろただ=清康の子、家康の父)と織田信秀(信長の父)が安祥城をめぐってくりひろげられた合戦のことです。写真の東条塚は、安祥福祉センターの東にあります。この辺りで、安城合戦がくりひろげられました。
安城松平4代清康(1535年(天文4)守山崩れ)と次の5代松平広忠(1549年(天文18))は、ともに相次いで家臣に暗殺され、安城松平は劣勢になりました。安城・岡崎松平は、今川と結ぶか織田氏と結ぶか議論があるなかで、今川氏のはざまで、本證寺*4門徒はいかなる場合も本證寺*5を守ろうと「本證寺*6門徒連判状(ほんしょうじもんとれんぱんじょう)」をつくりました。109名の武士が署名し本證寺*7の後継者を支援することを誓っています。

【写真85-1】本証寺門徒連判状 1549年(天文18) (本証寺蔵) 『安城市歴史博物館常設展示案内』から
1540年(天文9)織田信秀・刈谷城の水野忠正(ただまさ)の連合軍が安祥城を攻撃しました。西尾市吉良の東条城から駆け付けた松平康忠(やすただ)が討ち死にしたところが東条塚(とうじょうづか)です。10年間、3次にわたって激闘がくりひろげられました。織田に奪われた安祥城を今川勢が松平に加勢し奪い返しました。1547年(天文16)から1549年(天文18)までの家康の織田家における人質生活は安城合戦に翻弄(ほんろう)されていたといえます。
③ 古井の侍の屋敷
『参河国二葉松』の「三州古城記」には、古井に石原と細井の古屋敷があったと記されています。また、寺と村の言い伝えでは、蜂谷(蜂屋)半之丞貞次(はちやはんのじょうさだつぐ)の屋敷があったとのことことです。蜂谷半之丞貞次は徳川十八神将図の下の方に出ています。古井町中屋敷の蜂谷家の邸内に記念碑があります。
④ 三河一向一揆
1560年(永禄3)桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)後、今川から解放された松平元康(家康)は、岡崎城を拠点にして三河の平定に取りかかりましたが、一向一揆の勃発(ぼっぱつ)に直面しました。三河の真宗門徒は蓮如の側につくものが多く、蓮如の浄土真宗本願寺派(一向宗)は、急速に拡大しました。三河一向一揆(いっこういっき)は、西三河全域で1563年(永禄6)から1564年(永禄7)まで半年間続いた一向一揆です。
| 1563年(永禄6)7月に松平元康から松平家康に、1566年(永禄9)に徳川家康と改名しました。 |
一揆勃発の原因は諸説ありますが、『三河国門徒兵乱記(みかわのくにもんとへいらんき)』(安城市立図書館蔵)は次のように書いています。
ア)野寺鳥居浄心の話
野寺の本證寺*8の境内で鳥居浄心(とりいじょうしん)が庭でむしろに籾(もみ)を干していて、そこに岡崎城下の若侍が乗っていた馬が、突然あばれだし籾をけちらかしてしまいました。大勢が集まってきたので若侍は岡崎に逃げ帰りました。
イ)野寺検断
本證寺*9の境内で「悪党をはたらく者」があったというので、家康の家臣が取り調べに来ました。武士が検問することに怒り、ついに一揆となりました。
ウ)上宮寺のぬれ米
佐々木の上宮寺(じょうぐうじ)の門前にぬれた米が100俵ばかり干してありました。「豊年の時に返すから」と交渉に来た家康の使者に対して寺側は悪口を言いながらことわりました。怒った家康は検問を命じました。寺の人々は勝鬘寺(しょうまんじ)に逃げ込みました。

【画像85-2】三河一向一揆要図 『新編岡崎市史2』から (岡崎市教育委員会)
本證寺*10・上宮寺・勝鬘寺は三河三か寺といわれ多数の末寺や門徒を持つ一大勢力でした。そして、立ち入り検問を拒むことができる特権がありました。これは、家康にとっては領国支配の上でやっかいな問題でした。家臣の中には、門徒が多数いて一揆側に加担しました。古井に住んでいたといわれる蜂谷半之丞貞次は槍の名手として頼りにされていましたが、一揆側になりました。
一揆の最終段階で桜井円光寺(えんこうじ)の順正(じゅんせい)は、本證寺*11空誓(くうせい)の身代わり(みがわり)となって散っていきました。この「身代わり順正」の話は、村の人々に語り継がれています。
両軍の戦いがいきづまっていたころ、家康と寺側の仲に立って、戦いを終わらせなければと考える動きが出てきました。蜂谷半之丞貞次も終息に大きな役割を果たしました。一揆は次の3か条で和睦(わぼく)したともいいます。
|
和睦により、一揆は治まりましたが、家康は後に僧侶を三河国外に追放し、国内での活動を禁止しました(「一向宗」禁制)。家康は1583年(天正11)になってようやく「一向宗」を赦免(しゃめん)し、これを受け、三河本願寺教団は江戸時代になってから再興していくことになりました。

【写真86-2】上宮寺 岡崎市上佐々木町 【写真86-3】勝鬘寺 岡崎市針崎町

【写真86-4】本證寺*12 野寺町 2023年12月
『新編安城市史』では次のような新しい提案がされています。三河の大寺院に蓮如などの本山の有力者の親族が派遣されてきました。本證寺*13にも同様の血族の僧がおくられてきました。空誓です。空誓が三河へ到着すると三河の一向宗寺院の動きが激しくなった形跡を読み取ることができます。
|
国指定の本證寺*14 三河一向一揆の拠点の一つでした。徳川家康の命により取り壊されましたが、20年後に許され再建しました。江戸時代末期には200か寺以上の末寺を持つ中本山として繁栄しました。堀・土塁・本堂・庫裡(くり)・鼓楼(ころう)・鐘楼(しょうろう)・大門などがよく残る城郭伽藍(じょうかくがらん)の史跡として、2015年(平成27)国の史跡に指定されました。国指定重要文化財の善光寺如来絵伝・聖徳太子絵伝など多数の文化財が伝わっています。 |
|
★ ふれあいひろばご来場ありがとうございました お知らせ
|
(といあわせ:古井町内会事務所〔火曜~土曜日午前中〕電話 0566-76-3430)
【印刷用PDF】
下のリンクから、回覧板のPDFファイルが閲覧・印刷・保存できます。
より鮮明に閲覧・印刷・保存したい場合にご利用ください。
PDFファイルを閲覧・印刷いただくためには、Adobe Acrobat Readerが必要です。
PDFが表示されない場合は下記よりダウンロードしてください。
Adobe Acrobat Readerのダウンロード(無償)は、アドビシステムズへ。
※ このブログ記事は冊子『古井の歴史案内』を一章ごとに順不同で紹介するものです。
※ みぎのリンクからほかの章にとぶことができます。 【ブログ版目次】
※ 写真番号は冊子のページとページ内の番号を表示しております。
※ 赤字は冊子の記述を修正加筆したものです。
| 古井を含めた鹿乗川流域には、大きな集落ができクニへと発展します。注目すべきは、パレススタイル土器・人面文土器など地域色の強い文化を展開し、そのなかで古墳文化を築きました。この展開は古代寺院まで続きますが、律令制度や荘園制度の時代になって影をひそめます。ここでは平安時代までの歴史を紹介します。 |
| (1) 東日本のなかの西の端 (2) 東海西部にも古墳文化 (3) 古代寺院の時代 (4) 都との関りが強くなったころ |
紀元前8世紀ごろ大陸(朝鮮または山東半島(しゃんとんはんとう)) から来た人々によって伝えられた稲作は、九州北部にはじまり、東へ東へと広がっていきました。福岡県遠賀川(おんががわ)流域の稲作のムラでつくられた土器も稲作と同じように伝えられ急速に普及しました。遠賀川式土器(おんががわしきどき)といいます。
安城市歴史博物館の常設展示場に弥生時代のジオラマがあります。そのモデルとなったムラは清須市の朝日遺跡(あさひいせき)です。

【写真62-2】ジオラマ 弥生のムラを訪れた親子 『安城市歴史博物館常設展示案内』から
朝日遺跡は東海地方を代表する弥生時代(やよいじだい)前期の遺跡です。そのムラで種モミを分けてもらっている場面です。右側の父親がかついでいるのは条痕文土器(じょうこんもんどき)です。鹿乗川流域のムラから来た親子という設定です。
![]() |
||
| 1 神ノ木遺跡 2 稲尾遺跡 3 竹ケ花遺跡 4 上橋下遺跡 5 野辺遺跡 6 下橋下遺跡 |
7 塚越古墳 8 塚下遺跡 9 三ツ塚古墳 10 井ノ池遺跡 11 愛染古墳 12 東川古墳 |
13 彼岸田遺跡 14 古井堤遺跡 15 釈迦山遺跡 16 本神遺跡 17 二子古墳 18 堀内貝塚 |
古井や桜井の鹿乗川流域でも稲作がはじまりましたが、遠賀川の文化は、知多半島の丘陵(きゅうりょう)を越えて東へ広く普及しませんでした。

【写真62-4】条痕文土器 高さ68cm 口径26cm (安城市教育委員会)
上の土器は、古井堤遺跡(ふるいづつみいせき)出土の大型の壺(つぼ)です。壺の全体をハイガイでひっかいて条痕文をつけています。
鹿乗川流域で稲作がはじまると人々の生活が台地から低地に移ります。微高地(びこうち)に竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)を建てて住まいとしました。地図に示すように古井の集落の東の水田地帯には遺跡が点在しています。
岡崎市島坂町(しまさかちょう)の坂戸・三本木遺跡から安城市寺領町(じりょうちょう)の惣作遺跡(そうさくいせき)までの約5㎞を鹿乗川流域遺跡群といいます。
1955年(昭和30)ごろからはじまったほ場整備事業で、島畑の土砂を削り取ったところ大量の土器が出土しました。また、1998年(平成10)にはじまったほ場整備事業や鹿乗川拡幅工事にともなう発掘調査により鹿乗川流域遺跡群の全容の解明が進みました。発掘調査報告書ではその特徴を4点挙げています。
目・鼻・口・眉がはっきりわかります。

【画像63-1、2】下橋下遺跡(しもはしかいせき)出土の土偶形容器(どぐうがたようき)(複製) 高さ16cm
(原資料:愛知県陶磁美術館蔵)
縄文時代晩期から弥生中期のもので、顔や頭の様子がよくわかる出土品としては逸品(いっぴん)です。
土偶形容器は三河から信濃にかけて見つかっていて、条痕文系土器の分布圏と似ています。縄文時代の土偶とのちがいは、胸の表現や腹部を含めた下半身がないことです。また頭部を開けた容器となっていることです。幼児の歯や骨を入れた再葬用骨蔵器(さいそうようこつぞうき)と考えられます。

左【写真63-3】下橋下遺跡の古井式土器(安城市教育委員会)
右【写真63-4】惣作遺跡の古井式土器(安城市教育委員会)
古井式土器(ふるいしきどき)は、弥生時代を代表する土器様式の一つです。上の図は壺形の古井式土器です。鹿乗川流域遺跡群の南端の惣作遺跡(そうさくいせき)で出土しました。古井以外でも使われていたといえます。紀元前100年から紀元前50年ころの製作です。上部に8本前後の歯のある櫛を使って平行線を描いています。この土器の特徴は、この櫛描文(くしびょうもん)と肩の部分をふくらませていることや黒く焼き上げていることです。
1964年(昭和39)、阿原川に面した泥田をかさ上げするために、古井町の南端の本神(一部釈迦山)の畑の表面の土を2mほど削り取り、トロッコで泥田に運びました。その土取り工事で大量の土器が見つかりました。当時の古井町内会長の梅村圓次*1から安城市教育委員会に届け出がありました。石原教太郎教育長が先頭に立って緊急調査することになりました。文化財保護委員会で調査方針を協議し、天野暢保氏の指揮で8月16日から10日間かけて実施されました。夏休み中だったこともあり、大勢の教師が参加しました。古井町内の関係者(敬称略)は次の方々です。梅村圓次*2・山田月清・杉浦豊治・石原太介・尾関文啓・有我保徳・杉浦長三郎・石原清治・杉浦成一。

【写真64-1】本神遺跡の緊急発掘 1964年(昭和39) (安城市教育委員会)
発掘により、台地の端に沿って環壕(かんごう)が続いていたことが確認できました。また、東海西部独特の土器や外来系の土器もあり、この地域の特色のある文化圏の存在を裏付ける遺跡です。文化財保護の大切さを訴える契機となる発掘調査でした。
その後、2004年(平成16)県道の歩道整備、2008年個人住宅建設と、2011年県道から入る狭い道路の拡幅工事があり、3回の発掘調査が行われました。

【写真64-2】本神遺跡の環壕
『2011年度(平成23)市内遺跡発掘調査報告展』から (安城市教育委員会)
上の写真は2011年度(平成23)の3回目の調査です。幅3m、深さ2.5mのV字型の環壕が確認できました。
環壕内に壷(つぼ)、甕(かめ)、高坏(たかつき)など様々な土器が見つかりました。

【写真64-3】本神遺跡環壕内の土器
『2011年度(平成23)市内遺跡発掘調査報告展』から(安城市教育委員会)
土器は弥生時代後期から終末期(100~200年頃)のもので、畿内地方のたたき甕の技法の土器や遠江(とおとうみ)地方の技法による甕形土器があり、遠い地方との交流があったことが分かります。

【写真64-4】パレススタイルの壷
高さ19cm 口径13cm (安城市教育委員会)
上の土器は、本神遺跡(ほんじいせき)出土のパレススタイルの壷です。無地の表面に弁柄(ベンガラ)色の赤い塗料(酸化鉄)を塗ったものです。ギリシャのクノッソス宮殿で見つかった陶器に似ていることからパレススタイルの壷とよばれます。
1986年(昭和61)憶念寺の東、阿原川左岸の水田の土壌改良工事で土器片が見つかり、工事を中断して発掘調査が行われました。

【写真64-5】木製品の出土状況
『安城市埋蔵文化財発掘調査報告書第8集』から (安城市教育委員会)
土器や石器(石斧・石鏃)の他に、まこもなど湿地帯の植物が厚く堆積した腐植土の層に多くの木製品が埋まっていました。
釈迦山遺跡(しゃかやまいせき)の水分を多く含んだ地層により、木製品の保存状態が良かったと考えられます。様々な木製品から弥生時代の人々の生活の様子がわかります。
鍬(くわ)だけでなく鋤(すき)も使っての農耕、堅杵(たてぎね)を使っての籾摺り(もみすり)、機織り(はたおり)技術が伝わってきたことなど、稲作という農耕生活は、さまざまな道具を生み出し生活を発展させました。上のような竪櫛(たてぐし)も発見されました。

【写真65-2】平鍬 木部の曲柄 長さ22cm 【写真65-3】堅杵 長さ96cm
『安城市埋蔵文化財発掘調査報告書第8集』から (安城市教育委員会)

【画像65-4】布を織る機織りの様子 『新編安城市史10資料編考古』

【画像65-5、6】木製短甲(鎧) 縦12cm
『安城市歴史博物館常設展示案内』から (安城市教育委員会)
上の図は鎧(よろい)の一部です。木製の盾(たて)も見つかっています。当時、祭事の道具だったと考えられます。

【写真65-7】台付甕 【写真65-8】広口壷
(安城市教育委員会)
1958年(昭和33)鹿乗川の右岸の耕地整理が行われました。下橋下の地主の細井信治が自分で掘り出した土器や石器を自宅でガラスケースに入れて大切に保管していました。近年、現在の世帯主の細井新弥氏が安城市歴史博物館に寄贈されました。

【写真65-9】細井信治収集の下橋下遺跡の石器(安城市教育委員会)
上の掛軸は細井信治の発掘作業の姿を描いたものです。
自分の田んぼの中の島畑の土をていねいに取り崩して土器や石器を採集している様子がよく分かります。
2009年(平成21)古井町内会「ふれあい広場」で細井信治発掘の土器と掛軸を展示しました。当時を懐(なつ)かしむ人が多くいました。
1832年(天保3)『天保の村絵図』に神ノ木の隣に「若宮」が記されています。1873年(明治6)に古井神社にうつされるまでここで「若宮」(仁徳天皇)が祀られていました。
県営西鹿乗地区ほ場整備事業に伴い、島畑が削平(さくへい)されることになり、2001年(平成13)島畑とその周辺を含めた調査が行われました。調査の後、現地説明会で配られた資料によると、弥生時代・古墳時代のほか、平安から戦国時代までの遺構や遺物も見つかりました。鹿乗川流域遺跡群の中でも、長期にわたって集落が存続していたといえます。竪穴住居が18棟以上確認されました。5m×5mの方形で4つの柱穴が見つかりました。深さ約2mの井戸も17基見つかりました。
瀬戸焼(せとやき)や常滑焼(とこなめやき)、次の図のように煮炊きに使われた羽釜(はがま)や内耳鍋(ないじなべ)も多く見つかりました。家族の食事風景が想像できます。
神ノ木遺跡(かみのきいせき)では、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が5基、県道岡崎西尾線をはさんで上橋下遺跡(かみはしかいせき)で10基見つかりました。縄文時代から弥生時代前期までの土器棺墓や土壙墓に変わって、次の写真のように、1辺10mの方形で、まわりは深さ50cm~1m、幅1~2mの溝を掘り溝の土を内側に盛り上げ、墓域としてその中央に土器棺をおさめました。木棺で葬る例もあります。
古墳と違うのは集落の一角に方形周溝墓を築いたこと、副葬品(ふくそうひん)を納めなかったこと、支配階級の未発達な時代の墓制だったということです。

【画像66-3】神ノ木遺跡の方形周溝墓 『安城市埋蔵文化財発掘調査報告書第41集』から
火葬墓(かそうぼ)が5基見つかりました。壁面は熱で赤みを帯びていて、内部に人骨と木炭が残っていました。

【画像66-4】火葬墓 横1mの楕円形 (安城市教育委員会)

【画像66-5】人面文壷形土器 高さ26.5cm 『新編安城市史10』から
1977年(昭和52)桜井の亀塚遺跡(かめづかいせき)で壺の胴部に入れ墨(いれずみ)を持つ人の顔を描いた土器が見つかりました。天野暢保氏は「人面文土器(じんめんもんどき)」と命名して発表したら、全国的に注目されました。
のちに 2016年(平成28)国の重要文化財考古資料として「人面文壷形土器」の名で指定を受けました。亀塚遺跡の「人面文壷形土器」は、日本史を書き換えるほどの情報を持つ文化財です。教育委員会では、文化財企画展「原始・古代人の顔」を開催し、これをもとに安城にも地域の歴史を展示する博物館建設の機運が高まり、1992年(平成4)「安城市歴史博物館」ができました。
東上条遺跡(ひがしじょうじょういせき)でも顔を描いた球形の土製品が見つかっています。
動物や模様を描いた線刻画土器(せんこくがどき)は、下のように古井でも発見されています。土器に線を引く技能を持った人は、それぞれのムラで複数人いたと考えられます。

【画像67-1】神ノ木遺跡出土の壷 トリの線刻画 『新編安城市史10資料編考古』から

【画像67-2】線刻画のある土器の破片 釈迦山遺跡の出土の壷 『新編安城市史10資料編考古』から
|
弥生式土器 北九州で始まった稲作が普及した時代を弥生時代といいます。1884年(明治17)現在の東京都文京区弥生町の向ヶ岡貝塚で発見された土器は、文様が少なくうすくできているなど、それまで出土していない特徴が注目され、「弥生(式)土器」と命名されました。 |
|
(発掘の思い出) 弥生時代へタイムスリップ 大きなショベルカーが田んぼの土を50cmほど削り取った。神ノ木遺跡に作業員が15人、ブルーシートをはがして日よけのできる服装で入っていく。手にはシャベル、土を運ぶジョレン、竹べら。今日はどんな遺物にあえるかワクワクしながら弥生時代の土をガリガリ削っていく。土の色が変わっているところは家の跡。黒く焦げた土はお勝手(おかって)の跡。家の形があらわれてくる。 ある日、丸い形の土器の一部が見つかりみんなが集まる。傷つけないように竹べらと竹串で少しずつ土を取り除いていく。甕(かめ)の全貌(ぜんぼう)が見えてくる。甕の中の土はそのまんま博物館に運ぶ。 神ノ木遺跡には、何世紀にもわたって人の暮らしがあった。井戸の数・墓の跡・家の跡の多さから住みやすいところだったのだろう。真夏の炎天下での作業、熱中症で救急車のお世話になった人もいた。でも、発掘作業は、昔へ夢をふくらませることができて楽しい仕事だった。 古井町歴史研究会会員 |
安城市全体の中でも碧海台地の東の端、古井と桜井に古墳が集中しています。南北2.4kmに19基の古墳が確認でき、桜井古墳群とよばれています。
図のように3つの支群に分けると、北支郡は塚越古墳(つかごしこふん=前方後方墳45m)を主墳として6基、中央支群は二子古墳(ふたごこふん=前方後方墳68m)を主墳として8基、南支群は姫小川古墳(ひめおがわこふん=前方後円墳66m)を主墳として5基で構成されています。
古井町塚越(つかごし)の願力寺の裏山が塚越古墳です。かつて地元では大塚・王塚「オオツカ」「獅子塚(ししづか)」とも呼んでいました。願力寺の山号は松塚山(しょうちょうざん)です。平成20年(2008)代までは、松の高木でおおわれていましたが虫害により枯れてしまいました。
古井の集落は碧海台地が東にせり出していて、塚越古墳は、北側標高13mの台地の上に、主軸を北側に向けてつくられました。低い平地(沖積低地)との高低差は5mです。平地は水田地帯となっています。藪がなければ古墳の墳頂部から東尾の八幡社や安祥城址の森までを見渡すことができます。低い平地は、稲尾遺跡(いなおいせき)や神ノ木遺跡その東に竹ケ花遺跡(たけがはないせき)が確認されています。神ノ木遺跡は弥生時代後期から古墳時代さらに戦国時代までの複合遺跡です。
ア)1949年度(昭和24)の発掘調査
戦後間もないころ郷土史家三井博と古井の青年団が主力になって発掘が行われました。戦後の文化国家建設のいぶきのなか、地域の期待も大きく願力寺住職の山田亮賢(当時大谷大学教授)も積極的でした。
発掘に参加したのは次の24名でした。
| 伊與田與太郎*3・大河内梅太郎・細井信治・杉浦照一・渥美豊三郎・石原朝市・渥美保信・太田武一・石原浅次郎・杉浦昭・石原千足・藤本昭夫・石原勝・細井達美・石原武・杉浦光雄・渥美金作・渥美三世夫・石原岩夫・杉浦保・石原由三・石原勇・蜂谷源左衛門・伊藤敏彦 |
発掘調査報告書には、次のように出土品が記録されています。
| 叩き石(たたきいし=花崗岩製(かこうがんせい)) | 1点 |
| 碧玉製紡錘車型(へきぎょくせいぼうすいしゃがた)石製品 | 1点 |
| 鉄製品の残欠片 | 13点 |
写真の1は鉄製品で長さが15cm、写真の2と3も鉄製品で、刀剣類か工具類かのどちらかです。写真の4は幅5cmです。碧玉製紡錘車型石製品です。出土品は副葬品であると考えられます。
イ)2017年度(平成29)の発掘調査
一番寒い時期(12月4日~2月24日)の発掘調査でした。蚊に悩まされる夏場よりもよかったそうです。この発掘は、塚越古墳が前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)か前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)のどちらなのかを明らかにすることを目的に行われました。古墳の大きさも下のように正確に明らかになりました。
| 墳丘長 | 45.1m |
| 後方(円)部高さ | 4.8m |
| 標高 | 13.2~18.0m |
| 前方部高さ | 3.1m |
| 周溝 | 幅3.8m/深さ0.6m |

【写真69-5】トレンチ1 墳頂部 【写真69-6】トレンチ4 古墳の前方
『2017年度(平成29)市内遺跡発掘調査報告展』から (安城市教育委員会)
トレンチ1からは鉄剣か鉄ヤリが、また、トレンチ3の周溝からは円筒埴輪(えんとうはにわ)が出土しました。安城初の大型円筒埴輪です。トレンチ4からは盛り土の状況が分かりました。
古墳の形状は、前方後円墳か前方後方墳か未だ確定するだけの証拠を見出すことができなかったとのことです。
出土品の整理作業で、大型の厚手円筒埴輪であることがわかりました。発掘の大きな成果でした。
ウ)2024年度(令和6)の発掘調査
古墳の周囲から幅約6mの溝が見つかりました。溝が延びる方向から前方後方墳の可能性が高くなりました。周囲の溝の位置から古墳の後方部はひとまわり大きかったと考えられます。
古井町の中心部、県道安城桜井線沿い、あいち中央農協古井支店の西にあり、愛染明王が祀られています。北からの開析谷の最奥部にあります。標高13mの上に2m土を盛り上げた円墳です。発掘調査はされていませんが、頂上部の堂内に1983年(昭和58)岩瀬和市による由緒書きがあります。
この由緒書きには1891年(明治24)濃尾地震(のうびじしん)の際、墳頂部にあった堂が全壊したため、墳丘を4mほどけずって再建したと説明しています。
2000年(平成12)安城市史編纂にあたって墳丘(ふんきゅう)測量調査が行われました。現在残っている墳丘は、南北24m、東西15m、高さは2mです。由緒にあるように墳頂部はかなりけずられていて、広い平坦面になっています。
現在の堂の南側を墳丘の中心にして復元すると、直径24m、高さ6mの円墳だと考えられます。

【画像70-2】愛染古墳の墳丘実測図 『新編安城市史10資料編考古』から
2019年(令和元)8~10月、都市型公園『三ツ塚公園』設置工事にともなう発掘調査が行われました。

【写真71-3】三ツ塚古墳の発掘 【写真71-2】須恵器
『2019年度(令和元)市内遺跡発掘調査報告展』から (安城市教育委員会)
報告展によれば、鎌倉時代の山茶碗が見つかりました。また、墳丘の西側のくぼみから古墳時代の須恵器(すえき)が出土しました。須恵器は古墳時代の遺物です。
第1号古墳から約100m北西の地点に、かつては同じような第3号古墳があって、これを壊して整地した際に金環(きんかん)と鉄が出土したと伝えられています。金環とは金メッキした耳飾りで、鉄刀とともに古墳時代中期・後期の古墳からよく見つかるそうです。また、場所は特定できませんがこの付近にもう1基、同じような形の第2号古墳があったことから、三ツ塚の地名となっています。
三ツ塚古墳と同様に東川(ひがしがわ)にも三つの塚がありました。古井の人々によく知られているのは御堂山(みどうやま)の古墳です。東西9m南北11mの方墳とみられています。ササなど草木が生い茂り、正確には形状を把握することができません。芝刈りなどの管理はほとんどされていません。
古井町十王堂(じゅうおうどう)にある東川地蔵尊(子ども地蔵)の南に古墳があります。4m四方、50cmの盛り土。東川古墳をふくめた「東川の三ツ塚」の一つであるともいわれています。
ア)碧海山古墳(桜井町中開道)
県道安城・桜井線、信号交差点阿原下を過ぎてすぐの所に位置します。阿原川(堀内川)開析谷の台地上にあり、堀内貝塚から近い距離にあります。高さ4.5m、直径24mの円墳です。頂上が平らで広くなっていることが特徴です。古墳時代前期から中期(1400~1500年前)と推測されています。1965年(昭和40)安城市指定史跡となりました。
里の人々が頂に社(やしろ)を立て倭姫命(やまとひめのみこと)を祀りました。また、頂からはるか先に碧い海が見えたことから碧海郡の発祥の地であるともいわれています。
イ)二子古墳
釈迦山にある子ども運動広場から東の方向、集落越しに二子古墳(ふたごこふん)の松林が見えます。二子古墳は、阿原川(堀内川)の開析谷の出口、標高12mに南北に長く築かれました。古井と桜井古墳群の中では最大で、全長は68m、前方部の高さは4m、後方部の高さは7mの前方後方墳です。葺石(ふきいし)や埴輪は確認されていませんが、古墳内の松の木が台風で倒れたとき、根元から土師器(はじき)の破片が見つかりました。
1927年(昭和2)国史跡に指定され、南の入口に記念の石碑が建てられました。
また、1979年(昭和54)史跡指定区域を取り囲む柵が設置されました。後方部の頂上に1914年(大正3)桜井神社に合祀されたという「桜井天神社古趾(さくらいてんじんしゃこし)」の記念碑が立っています。二子古墳の頂上から南230mに桜井神社の松林が見えます。桜井神社の社殿は、比蘇山古墳(ひそやまこふん=前方後円墳)の上に建てられています。
古墳と神ノ木遺跡や上橋下遺跡で発見された弥生時代の方形周溝墓のちがいは、古墳の方が規模が大きいことや集落から離れた台地の端につくられたこと、多数のムラの財宝を備えていることなどです。
新しいムラの頭は、遠くのクニの王(首長)との連合・服従関係を維持しようとしました。遠方からの使者に、造った山であることがはっきり分かるような前方後方墳・前方後円墳を築造しました。また、遠方の仲間の王の力を借りてクニを守る必要から、遠くの王の戦争には、ムラの住民を引き連れて加勢しました。ムラは支配体制を備えた地方国家に発展しました。桜井小学校・桜井中学校が編集した『桜井の歴史』に、二子古墳の盛り土の土量が53,000立方メートル以上で小型のダンプカーで1万台になると記しています。
二子古墳のすぐ東は二タ子遺跡(ふたごいせき)ですが、その集落の住民だけの労力で築造できるものではありません。畿内のヤマト政権や、ほかの巨大な政権から土木技術者を派遣してもらい、鹿乗川流域または矢作川流域全体に呼び掛けての土木工事だったと考えられます。まず二子古墳がつくられ、次に塚越古墳そして姫小川古墳(全長66m 前方後円墳)がつくられていきました。当時、古墳には木が生えていない墳丘の巨大古墳が南北にいくつも続いている景観は、外向きにも大きな勢力のクニであることを強調したといえます。
二子古墳が築かれる古墳時代前期には、集落は、古井町稲尾付近から鹿乗川流域に沿って東町の亀塚遺跡そしてさらに南へ姫小川町までの南北約5kmに広がっていました。この鹿乗川流域遺跡群は、矢作川流域では屈指の文化が集中する地域であり、その発展として築造された古井と桜井の古墳群は西三河では最古級であると考えられます。
その研究の成果が『三河国、ここにはじまる』(安城市教育委員会・土生田純之編/雄山閣/2017年)にまとめられました。
この書の表紙のカバーには、二子古墳の写真と2012年(平成24)古井町本神遺跡の発掘現場説明会で地元の人々が見学している写真が使われています。
このような大規模な古墳づくりの体制は、3世紀ごろ近畿地方の大和盆地(やまとぼんち)ではじまりました。副葬品には三種の神器とよばれる鏡・玉・剣のほかに鉄製武具類が納められました。前期古墳から出土する鏡(三角縁神獣鏡=さんかくぶちしんじゅうきょう)の分布を線で結ぶとその線が特定の古墳に集中し、拠点の古墳から配られたという説があります。
その古墳が山城国椿井(つばい)大塚山古墳(おおつかやまこふん=全長175m/京都府木津川市)と大和黒塚古墳(やまとくろづかこふん=全長130m/奈良県天理市)であると考えられます。『愛知県史資料編3』では、「政治的な中枢が畿内に生まれ、畿内勢力を盟主とした地方の首長との政治的連合体が形成された」と述べられています。
古墳の形状が、畿内地方では前方後円墳ですが東海地方は、二子古墳のように前方後方墳ではじまっています。この違いに二つの説があります。一つは、ヤマト王権が地方のクニを下とみて、前方後方墳にさせたとみる説、もう一つは東海地方西部がヤマト政権と対立する狗奴国連合(くなこくれんごう)の一角になっていたから前方後方墳になったとみる説です。狗奴国が『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にある邪馬台国(やまたいこく)と対立していたとする説によります。
畿内地方とは違う鹿乗川流域遺跡群の独特の文化(人面文土器・パレススタイル土器・容器型土偶・縄文時代晩期の再葬墓や叉状研歯(さじょうけんし)など)が桜井古墳群の前方後方墳に関連しているとも考えられています。
| 名称 | 所在地 | 墳形 | 全長 |
|---|---|---|---|
| 象鼻山古墳 粉糠山古墳 東之宮古墳 二子古墳 市杵嶋神社古墳*4 銚子塚古墳 |
養老町 大垣市 犬山市 安城市 豊橋市 磐田市 |
前方後方墳 前方後方墳 前方後方墳 前方後方墳 前方後方墳 前方後円墳 |
42m 100m 72m 68m 55m 108m |
西三河で最大の古墳は、西尾市吉良町の正法寺古墳(しょうぼうじこふん=全長94m/前方後円墳)です。古墳時代中期の築造、当時、すぐ前が三河湾の海岸線でした。海上交通を掌握した首長、また、海上ルートでヤマト政権との強い関係を持った首長だったと考えられます。
岡崎市の西本郷に和志取古墳(わしとりこふん=全長60m/前方後円墳)と宇頭町に宇頭大塚古墳(うとうおおつかこふん=全長60m/前方後円墳)があります。西三河の中心が古井と桜井古墳群から西本郷と宇頭の古墳群に移ったと考えられます。
神話に基づくいわれですが和志取古墳は、景行天皇の皇子の五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)の墓ということで宮内庁管理となっています。宇頭大塚古墳は後円部墳丘上に薬王寺(やくおうじ)がありますが、前方部は江戸時代初期に東海道によって切断され原形をとどめていません。
古墳時代後期、5世紀末から6世紀初頭にかけて古墳は、平地に横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を築き、その石室を土でおおった円墳が主流となりました。前方後円墳に比べ規模が小さいことが特徴です。木棺に納められた死者は石室の一番奥の玄室に安置され、周りに副葬品(鉄刀や馬具・須恵器など)が供えられました。埋葬後石室の入口は石を積んで閉じられました。その後、家族の関係者が亡くなると石室の入口を開け追加埋葬しました。
聖徳太子に関する伝え『上宮聖徳法王帝説』や元興寺(がんごうじ)の縁起には、538年に仏教が伝わったとしています。また、『日本書紀』には、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)が欽明天皇(きんめいてんのう)に金銅製の釈迦像と仏の教えを説いた書物を贈ってきて、日本でも仏教を取り入れるようにと言ってきたとあります。
天皇は大勢の豪族に仏教を受け入れるべきか検討させました。結局、蘇我稲目(そがのいなめ)の主張をとり、仏教が入ってきました。金堂や講堂・塔など備えた日本最初の本格的な寺院は、蘇我馬子(そがのうまこ)が建てた法興寺(ほうこうじ=飛鳥寺)です。つづいて聖徳太子が四天王寺(してんのうじ)と法隆寺(ほうりゅうじ)などを建てました。624年には46の寺ができました。仏教が盛んになったこの時代を飛鳥時代(あすかじだい)といいます。
白鳳期(はくほうき=645~710年)には、伊勢国や美濃国・参河国でも寺院造営がはじまりました。岡崎の北野廃寺、安城では、別郷廃寺(べつごうはいじ)と寺領廃寺(じりょうはいじ)です。
別郷町の市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)の拝殿脇に花崗岩(かこうがん)でできた礎石(そせき=長軸97cm、短軸96cm、厚さ46cm)が縦に立てられています。北野廃寺(きたのはいじ)と同時期の古代寺院の伽藍(がらん)の礎石です。神社に運びこまれたと伝えられています。瓦も多数出土しています。
2013年(平成25)民家改築にともなっての発掘調査で、大量の古代瓦のほかに瓦製の鴟尾(しび=復元推定の高さ120cm)の破片が見つかりました。唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂の屋根の鴟尾と同じ大きさです。

【写真74-2】別郷廃寺鴟尾 『2013年度(平成25)発掘調査報告展』から (安城市教育委員会)
平安時代の漢詩集『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』に、「参河碧海郡に一道場あり、薬王寺という。行基菩薩(ぎょうきぼさつ)建立の所なり。・・・草堂あり、経蔵あり、茶園あり、薬圃あり。」(読み下し文)と紹介された薬王寺が別郷廃寺のようです。「行基(ぎょうき)が建立した」とあるのは、由緒ある寺であるという意味のようです。

【画像74-3】寺領廃寺推定復元図 『安城市歴史博物館常設展示案内』
1954年(昭和29)の発掘調査で、上図のように講堂・金堂・東塔・西塔の配置が推定されました。矢作川西岸の洪積台地に位置し、東大寺式伽藍(とうだいじしきがらん)で境内は東西127m南北146mと推定される壮大な寺院でした。

【写真74-4、5】寺領廃寺の軒丸瓦(左)と軒平瓦(右)
『安城市発掘調査報告書第12集』から (安城市教育委員会)
軒丸瓦(のきまるがわら)は、北野廃寺や別郷廃寺でも見られる高句麗(こうくり)系のものがふくまれています。製作時に型板に麻布を敷いて成形したことから布目が残り布目瓦(ぬのめがわら)とよばれています。
「乙巳の変(いっしのへん)」は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=のちの天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、蘇我氏から政権を奪ったクーデターであり、政治改革の入口にたった事件だとわかってきました。中大兄皇子らは天皇を中心とし、律と令という法律に基づく支配体制を築く努力を重ねます。
天智天皇(てんじてんのう)が病没すると朝廷の周囲では二派に分裂して、672年壬申の乱(じんしんのらん)が起きます。これを勝ち抜いた大海人皇子(おおあまのおうじ)は天武(てんむ)天皇として朝廷の頂点に立ちました。以後、持統(じとう)天皇・文武(もんむ)天皇がこれを引き継ぎ701年には大宝律令(たいほうりつりょう)ができます。このころまでに土地・人民の支配方策がまとまり、かつて「大化の改新」の4項目(以下に示す)とされた制度ができあがりました。
2003年(平成15)、奈良県明日香村の石神遺跡現地説明会で次のような木簡が紹介されました。天武朝期(673~686年)の木簡です。
三川国青海評から都へ派遣された「仕丁」に対して、支給する食糧を記載した帳面「帳簿木簡」のひとつです。
「二升」とあるのは、各サトから2人が1組になって、仕丁として送られましたが、この2人に支給する1日分の食糧です。
仕丁は「よぼろ」または「つかさのよぼろ」とよみ、2人ひと組で送られ、1人は都建設などの力仕事に従事し、もう1人は廝丁(しちょう)といい、1人のための炊事などに従事する建前になっていました。
「鳥取」は、「わしとり」とよみ和志取里のことです。「櫻井*5」は古井を含む鹿乗川流域遺跡群のこと、「青見」は「あおみ」とよみ碧海里のこと、「知利布」は「知立里」です。
「評・郡」はともに「こおり」とよみ、「五十戸・里・郷」はどれも「さと」とよみ、表のように移り変わったとみるのが有力な説です。
村内の家族を50戸で束ねて一つの里としました。里の中の家々をしっかりと支配するために戸籍(こせき)をつくらせました。戸籍には、各戸ごとに戸主の名前を書き、続いて直系家族・傍系家族・各妻妾(さいしょう)、ほかに寄人(没落自由民)や奴婢(ぬひ=下男・下女・召使い)を記載しました。戸を単位とした課役や兵士の徴発、口分田の支給、租税徴収を確定するうえで重要な基本台帳でした。
上の表から「参河」と表記されるのは奈良時代初めごろからだとわかります。「青見評」は「あおみのごおり」と読みます。同じく奈良時代に碧海郡となります。「五十戸」は「さと」と読みます。
下は、長さ296mm、幅58mmの大型帳簿木簡の表と裏です。おもての「加牟加皮手(かむかひて)」の手は技術者をさし、「加牟加皮手」が率いる仕丁集団で、裏を見ると構成員の出身が分かります。桜井戸には古井も含まれています。

【写真76-1、2】天武天皇のころの木簡 石神遺跡 (奈良文化財研究所)
『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』は『倭名抄』ともいい、10世紀につくられた20巻分類体漢和事典です。上の表は『倭名類聚抄』にある碧海郡内の郷を列記したものです。谷部(はせべ)は岡崎市西本郷のあたりです。采女(うねめ)は、豊田市上郷町と畝部町のあたりです。采女は宮廷で食事や天皇の身の回りの雑事をする女官のことです。桜井は古井を含めた鹿乗川流域遺跡群の地域です。
8世紀の初め、律令制度が整うと参河国は五畿七道のうちの東海道に編成されました。参河国の国府(こくふ)は、穂国(ほのくに=豊川市)に置きました。朝廷から国司が派遣されました。参河国は8つの郡に分けられ郡衙(ぐんが)という役所が置かれました。そして地域の有力者が郡司に任命されました。この地域は碧海郡ですがその郡衙がどこか特定されていません。しかし、古井の彼岸田遺跡(ひがんでいせき)から大量の墨書土器(ぼくしょどき)が出たことから郡衙に関係する役所があった所だと考えられます。
安城鹿乗工区の県営ほ場整備事業を前にして2003年(平成15)発掘調査により大量の墨書土器(109点)が見つかりました。

【写真76-3】彼岸田遺跡の墨書土器 『安城市埋蔵文化財発掘調査報告書第30集』 (安城市教育委員会)
平安時代末期(1120年代)につくられた説話集『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』に「参河国の犬頭糸(けんとうし)」がのっています。これは延喜(えんぎ)年間(901~923年)の話で次のようなあらすじです。
|
参河国の犬頭糸 参河国のある所の郡司は、2人の妻に蚕を飼わせていた。たいそうもうけていたが、本妻の蚕が次々に死んでしまい家は寂れ郡司は立ち寄らなくなった。それでも妻は桑の葉に残っていた蚕を見つけ大事に育てた。 ところが妻が飼っていた白い犬がこの蚕を食べてしまった。妻は悲しんだが犬をやさしくいたわった。すると犬の鼻の穴からきれいな糸が次々に出てきて、4~5千両ほどの糸を巻き取ったところで犬は死んだ。妻は犬を桑の木の根元に埋めてとむらった。夫の郡司は妻からこの話を聞き、神仏の助けと悟り、妻と暮らすようになった。 郡司はこのことを国司に語り、国司は朝廷に報告した。それ以後、この絹糸は、「犬頭糸」の名で参河国から毎年朝廷へ献上されることになった。そして、この犬は、天皇の御召物となるためにこの世にあらわれたと語り伝えられた。 |
犬頭糸を献上したのはどこの郡か『今昔物語』からは読み取れません。宝飯郡(ほいぐん=豊川市)に犬頭神社があります。碧海郡(岡崎市六ッ美)には糟目犬頭神社(かすめけんとうじんじゃ)、岡崎市大和町(だいわちょう)に桑子神社(くわこじんしゃ=犬頭神社)がありました。桑子神社跡地には、基壇と社殿の礎石があり、基壇に犬の形の石が置かれています。桑子神社は同じ大和町内の白鳥神社に合祀されました。

【写真77-1】桑子神社跡地(岡崎市大和町) 2023年12月
碧海郡は良質の絹糸を生産し、その絹糸は、「犬頭糸」とよばれ調(ちょう)として都に運ばれました。地方では絹糸を布に織ることはありませんでした。

【写真77-2】井ノ池の灰釉陶器(かいゆうとうき) 高さ14.7cm
『新編安城市史10 資料編』から (安城市教育委員会)
8~9世紀以後、猿投山のふもとの窯で焼かれた製品が高品質だと評価されました。古井町井ノ池遺跡出土の「水注(みずさし)」(写真)もそこで製造された一つです。安城市歴史博物館の常設展示室に陳列されています。
律令制度の下では、公地公民に基づき班田収授法が行われていましたが、口分田の不足や重い税から逃れようとする民もあり、743年(天平15)墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出されました。その後土地の私有化が進みました。
荘園は、奈良時代の末期以降、有力な貴族や寺社が私的に所有した土地のことです。不輸(ふゆ=租税免除)・不入(ふにゅう=役人の立入り調査なし)の特権が朝廷から与えられました。
志貴荘(しきのしょう)は安城のほかに碧南・高浜・岡崎の一部も荘園の範囲だったともいいます。参河国の国司となった藤原保相(ふじわらのやすすけ=在任1028~1031年)が志貴荘下条を領地とすることを朝廷に認めてもらいました。そして、藤原頼通(ふじわらのよりみち=摂政・関白)に寄進し代々藤原氏の荘園として受け継がれてきました。
1166年(仁安元)都の下級貴族だった平信範(たいらのぶのり)が日記『兵範記(へいはんき)』に次のように記しています。
| 三河国志貴荘下条の土地を治めるよう に、大納言(だいなごん)殿が安芸守(あきのかみ)を通じて知らせてこられた。なげかわしいことが多い中でうれしいことだ。これは亡くなられた方のおかげにちがいない。深くお敬(うやま)いしなければならない。 |
文中の大納言殿とは、平治の乱(1159年)で源氏に勝って大きな権力を得た平清盛である。亡くなられた方とは、平信範がつかえていた摂政の藤原基実(ふじわらのもとざね)で、清盛の娘盛子(もりこ)を妻にしていました。
1166年(永万2)基実が24歳で亡くなると、子の基通(もとみち)がまだ7歳だったので平清盛は、亡くなった次の日に平信範に志貴荘下条の支配を任せることにしました。荘園の支配が藤原氏から平家に移ったことが分かる出来事です。
1185年 (文治元) 平氏が滅んだ後、荘園は藤原氏(近衛家)にもどされ、関白の地位にあった近衛基嗣(このえもとつぐ)が1351年(観応2)京都に楞伽寺(りょうがじ)を建て、この寺の荘園としました。応仁の乱で寺が焼け荘園はなくなりました。
志貴荘下条は、上条を現在の上条町だとすると、下条はその南の安城町(東尾・西尾)・古井町から桜井町にかけてのうちだと考えられます。
桜井町印内(いない)の人々が大切に守り続けてきた「印内のお薬師さん」は、薬師如来坐像*6(やくしにょらいざぞう)です。平安時代末期保元・平治の乱のころの制作で、高さが143cm巨大な木像です。愛知県指定の文化財です。印内薬師は、桜井神社の西、鉄筋コンクリート製のお堂に安置されています。
かつて桜井神社には神宮寺(じんぐうじ)があったとのことです。この印内薬師が置かれた寺院はどこだったのか確定できませんが、桜井神社の神宮寺、神社の南の「塔ノ元(とうのもと)」、古井町憶念寺の付近などが考えられます。
古井町井ノ池 7 番地付近で布目瓦の小片が見つかりました。この付近は、「本神」です。地元の人々は「ほんじん」ではなく「ほんじ」と言います。古井神社の古書類に「本地」の表記があります。本地は、奈良・平安時代に説かれた「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」に関わる用語です。
仏と神々は根本的には同じで、仏と菩薩が本来の姿(本地)で日本の神々は仮の姿(権現=ごんげん)であるとの考えです。日本の神々は国内の実情に合わせて仏(本地)が姿を変えて現れてくれたもの(垂迹)とされました。
古井町の「本神」はこの地点に仏教寺院があったことを伝える地名です。
※ このブログ記事は冊子『古井の歴史案内』を一章ごとに順不同で紹介するものです。
※ みぎのリンクからほかの章にとぶことができます。 【ブログ版目次】
※ 写真番号は冊子のページとページ内の番号を表示しております。
※ 赤字は冊子の記述を修正加筆したものです。
| 1 古井町出身の安城市長、県議会議員、町議会議員、市議会議員 (1) 安城市長 (2) 県議会議員 (3) 町議会議員 (4) 市議会議員 |
|
| 2 歴代古井町内会長 | |
(1) 安城市長
【1952年5月5日、安城市発足(安城町から移行)】
| 氏名 | 任期 |
|---|---|
| 石原一郎(2代) | 1959年(昭和34)2月~1967年(昭和42)2月 |
(2) 愛知県議会議員
| 氏名 | 任期 |
|---|---|
| 石原一郎(1期) | 1947年(昭和22)4月~1951年(昭和26)4月 |
| 石原一郎(2期) | 1951年(昭和26)4月~1955年(昭和30)4月 |
| 石原一郎(3期) | 1955年(昭和30)4月~1959年(昭和34)1月 |
| 永田敦史(1期) | 2023年(令和5)4月~ |
(3) 安城町議会議員
【1906年5月1日、安城町発足(安城村や古井村が合併して)】
| 氏名 | 任期 |
|---|---|
| 石原由松 | 1906年(明治39)7月~1912年(明治45)7月 |
| 稲垣久太郎 | 1906年(明治39)7月~1912年(明治45)7月 |
| 石原弥太郎 | 1909年(明治42)7月~1916年(大正5)7月 |
| 石原市左衛門 | 1914年(大正3)7月~1918年(大正7)7月 |
| 伊与田九市 | 1916年(大正5)7月~1918年(大正7)3月 |
| 細井種次郎 | 1916年(大正5)7月~1920年(大正9)7月 |
| 市川直太郎 | 1918年(大正7)7月~1922年(大正11)7月 |
| 稲垣権太郎 | 1918年(大正7)7月~1920年(大正9)2月 |
| 岩瀬正平 | 1947年(昭和22)4月~1952年(昭和27)4月 |
(4) 安城市議会議員
【1952年5月5日、安城市発足(安城町から移行)】
| 氏名 | 任期 |
|---|---|
| 岩瀬正平 | 1952年(昭和27)5月~1955年(昭和30)4月 1955年(昭和30)5月~1959年(昭和34)4月 |
| 岩瀬和市 | 1955年(昭和30)5月~1959年(昭和34)4月 |
| 大河内秀司 | 1959年(昭和34)5月~1966年(昭和41)1月 1971年(昭和46)5月~1975年(昭和50)3月 |
| 細井幸彦 | 1963年(昭和38)5月~1967年(昭和42)4月 |
| 渥美芳治 | 1967年(昭和42)5月~1979年(昭和54)4月 |
| 稲垣七郎 | 1979年(昭和54)5月~1983年(昭和58)4月 |
| 稲垣甚作 | 1979年(昭和54)5月~1983年(昭和58)4月 |
| 大澤正*1 | 1983年(昭和58)5月~1983年(昭和58)11月 |
| 岩瀬雅之 | 1983年(昭和58)5月~1995年(平成7)4月 |
| 青木濱吉*2 | 1991年(平成3)5月~1995年(平成7)4月 |
| 宮川金彦 | 2003年(平成15)5月~2019年(平成31)4月 |
| 永田敦史 | 1999年(平成11)5月~2011年(平成23)1月 2011年(平成23)5月~2019年(平成31)1月 2019年(令和1)5月~2023年(令和5)1月 |

【写真20-1】石原一郎 【画像143-1】田園風景 安城のシンボル(2013年6月)中日新聞から
| No | 氏名 | 在任期間 | 任期 | |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 太田健松 | 1945~1946 | 昭和20~21 | 2年 |
| 2 | 稲垣栄一 | 1947~1948 | 昭和22~23 | 2年 |
| 3 | 大沢一松 | 1949~1950 | 昭和24~25 | 2年 |
| 4 | 岩瀬和吉 | 1951 | 昭和26 | 1年 |
| 5 | 林芳郎 | 1952~1953 | 昭和27~28 | 2年 |
| 6 | 太田重逸 | 1954 | 昭和29 | 1年 |
| 7 | 岩瀬三郎 | 1954~1955 | 昭和29~30 | 2年 |
| 8 | 稲垣市郎 | 1956~1957 | 昭和31~32 | 2年 |
| 9 | 大沢徳一 | 1958 | 昭和33 | 1年 |
| 10 | 神尾半二 | 1960~1961 | 昭和35~36 | 2年 |
| 11 | 石原正平 | 1962~1963 | 昭和37~38 | 2年 |
| 12 | 梅村圓次*3 | 1964~1965 | 昭和39~40 | 2年 |
| 13 | 大河内秀司 | 1966~1971 | 昭和41~46 | 6年 |
| 14 | 稲垣七郎 | 1972~1973 | 昭和47~48 | 2年 |
| 15 | 杉浦直喜 | 1974~1975 | 昭和49~50 | 2年 |
| 16 | 大河内秀司 | 1976~1979 | 昭和51~54 | 4年 |
| 17 | 大澤正*4 | 1980~1981 | 昭和55~56 | 2年 |
| 18 | 宮宅成男 | 1982~1983 | 昭和57~58 | 2年 |
| 19 | 杉浦新松 | 1984~1985 | 昭和59~60 | 2年 |
| 20 | 稲垣七郎 | 1986~1989 | 昭和61~平成元 | 4年 |
| 21 | 宮宅成男 | 1990~1991 | 平成2~3 | 2年 |
| 22 | 鈴木健治 | 1992~1995 | 平成4~7 | 4年 |
| 23 | 稲垣甚作 | 1996~2007 | 平成8~19 | 12年 |
| 24 | 杉浦正之 | 2008~2015 | 平成20~27 | 8年 |
| 25 | 稲垣実 | 2016~2020 | 平成28~令和2 | 5年 |
| 26 | 大河内敏博 | 2021~2022 | 令和3~4 | 2年 |
| 27 | 岩瀬昭彦 | 2023~2024 | 令和5~6 | 2年 |

【画像144-1】古井町自主防災会会旗 【画像144-2】水害手作りハザードマップ 2021年9月