わがふるいに金蔵塚(きんぞうづか)っていうあざがあることは、ものごころついたころからしっとった。ほの金蔵塚っていうあざに金蔵塚っていうつかがあることを、さいきんしった。ほいでついさいきんになって、あんじょう合戦でうちじにしたものたちをとむらった十三塚のひとつに、金蔵塚っていうつかがあることをしった。あんじょうはふるいのきたにあるまちで、戦国期まであんじょう城っていうしろがあっただけど、これをめぐる松平、織田、今川いりみだれての合戦があんじょう合戦だ。
わがふるいの金蔵塚にある金蔵塚が、あんじょう合戦十三塚のひとつの金蔵塚にちがいない。あんじょう合戦の戦場はわがふるいにまでおよんどっただ。きょう2021年4月12日、あらためてこの金蔵塚をあるいてみた。
(古井町公民館長岩瀬昭彦)
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ふるいのおみやさんこと古井神社におまいり。
うら参道からにしのみちにでる。
ちょこっときたにいって、十字路東北かどのいぼ地蔵さんにおまいり。わが少年時代ここにおまいりしていぼがなおったっていう経験があるだけど、名鉄西尾線の前身、碧海電気鉄道の建設にあたっとった線路工夫(せんろこうふ)さんも、ここにおまいりしていぼがなおったっていう。
十字路からにしにいく。いったんひくみにおりて、またたかみにあがっていく。ひくみのへんは、左右新興住宅街。たかみにあがるへんから、ふるくからの住宅地。
のぼりざかのとちゅうで右折。こっからきたにいく。こっから金蔵塚のあざの区域になるだけど、むかしはこのみちがめぬきどおりだったっていう。ちょこっとのぼりざかであとは水平にいく。左右はふるくからの住宅地。
ななめの十字路を直進。こっからは軽トラック1台がかろうじてとおれるはばしかない。こいでもめぬきどおりだっただ。また、この十字路からは、ひだりうえにふるいのえきにいけて、みぎしたに県道にでれる。このみちと県道は平行しとるだけど、このみちがむかしのめぬきどおり、県道がいまのめぬきどおりってわけだ。
ひだりがたかみ、みぎがひくみっていう地形のなか、めぬきどおりをきたにいく。
すすんで、みぎに保福寺(ほうふくじ)がみえてくる。
保福寺のうらまですすんで、みちのみぎわきにちいさなもり。みちはこのもりのぶんだけ、ひだりに迂回。
もりのむこうがわ、もりにかくれるようにして金蔵塚のつかがたっとる。ここにあんじょう合戦でうちじにしたものたちをとむらってあるだ。いいつたえによると、このつかからあおいひがでたり、このつかにわるさをすると熱がでてねこんだりすることがあるっていう。おまいり。
すすんで、つきあたりT字を左折、にしにいく。ちょこっとのぼりざかであとは水平にいく。左右は新興住宅街のなかにふるくからの住宅がぽつんぽつん。
金蔵塚のあざの区域からはずれてすすんで、名鉄西尾線古井4号ふみきりのわきに地蔵さん。かなしいかなふみきりに地蔵さんはつきもん。
ふみきりをわたらんで、右折してきたにいく。いまはみちの左右の土地がおんなじたかさになっとるけど、みぎはもともとのたかみで、ひだりはがけしたをうめて造成した土地。左右とも、アパートやマンションもある新興住宅街になっとる。
すすんで、みぎに1枚だけたんぼ。むかしは左右たんぼだっだけど、ここだけのこっとる。
すすんで十字路にでる。ふるいの区域はここまでで、このさきはあんじょうの区域になる。すぐ左右は墓地で、ほんなかに、十三塚にかぞえられる千人塚や東条塚がある。墓地のなかをいくみちが勢井畷(せいなわて)で、墓地からおりてたんぼんなかをとおっていったむこうに、あんじょう城のあとや、むかしっからのあんじょうのまちがある。また、勢井畷のひがしのほうからふるいのきたのほうにかけて、たんぼんなかを勢井前川(せいまいがわ)がながれる。
(さんこう)
- 安城合戦 - Wikipedia
- 古井町歴史研究会 - 金蔵塚の碑
- あおいひがでるとか、つかにわるさをすると発熱してねこむといわれ、自然のちからをおそれてまつったつかです。
- 古井町歴史研究会 - いぼ地蔵
- 幕末のころ、保福寺の和尚があんじょうから桜井へむかうみちのつじにまつりました。
- 昭和のはじめのころ、電車の線路工夫がこの地蔵をまいりいぼがなおったとのうわさがひろがり、「いぼ地蔵」とよばれております。
- 道路の改修でなんども移動し、1933年からいまの地点にうつりました。