このあいだ安城市歴史博物館で開催の「戦争にいくということ展」にいって、日露戦争で戦死した稲垣久逸さんにまつわる資料をみてきました。稲垣久逸さんはわが古井はじめての戦死者っていうことで、大心院は、稲垣久逸さんのおとうさんが、わがこをはじめとする日清日露戦争の戦死者をとむらうためにたてた慰霊堂です。展示は9月13日まで。
(古井町公民館主事岩瀬昭彦)
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稲垣久逸さんについてのせつめい。
1876年、古井村にうまれる。東京慈恵医院医学校を卒業のあと、海軍省より医学校講習生の命令をうけ、海軍少軍医に任じられた。1904年、日露戦争では大軍医として第一艦隊第三戦隊の巡洋艦高砂に乗船する。旅順港封鎖哨戒任務についた同年12月13日、水雷にふれた巡洋艦高砂は沈没し、乗員436人中、稲垣久逸氏をふくむ283人が死亡した。
医学校を卒業ってあるけど、古井町歴史研究会のひとのはなしによると、ちちおやがふるいで開業医をやっとったとのこと。いや、ふるいにお医者さんがあったとはしらんかった。ほいで、海軍の軍医になって巡洋艦高砂に乗船。旅順で水雷にあたって沈没。戦死する。日露戦争もなかばの1904年12月13日のこと。
軍医になるにあたっての海軍からの命令書。
海軍軍医学校講習生命令書(1899年6月 - 堀内町熊谷家資料)
海軍少軍医候補生稲垣久逸
海軍軍医学校講習生ヲ命ス
1899年6月21日
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海軍少軍医候補生命令書(1899年6月 - 堀内町熊谷家資料)
稲垣久逸
海軍少軍医候補生ヲ命ス
1899年6月21日
1899年6月21日づけで、海軍少軍医候補生になることと、あわせて海軍軍医学校講習生になることの命令がでとる。当年とって満23才になるとしのことだ。じぶんで軍医になることをのぞんだわけじゃなかったのか。
ちちおやへのさいごのてがみ。
久逸よりちちへのてがみ(1904年11月 - 堀内町熊谷家資料)
日露戦争において巡洋艦高砂の海軍軍医がちちおやにあてたさいごのてがみ。いえをかえりみんあねのしんぱいや、ロシアバルチック艦隊とのたたかいとなれば戦死するかもしれんってしるしとる。強国ロシアの艦隊との戦闘にたいし直接対峙する兵士の不安がみえる。またじぶんが戦死したあと、下賜金扶助料についてつまの進退によってはちちおやがうけとるようさとしとる。一時呉港におるあいだにしたためたもんで、この2週間あとに巡洋艦高砂は水雷により沈没し、軍医は戦死した。
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戦地より書簡巻子(堀内町熊谷家資料)
稲垣久逸氏が両親やつまへおくったてがみをひづけ順で巻子にしたてたもん。日露戦争開戦直后からなくなるひとつきまえまでの17通と封筒も一部ふくまれとる。たたかいや艦内のようす、またなんどかたたかいははやくおわるとしるしながらかえることはなかった。
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兵士のきもち
地域社会は徴収、招集された兵士の入営、出征をいわった。戦争が激化するとはでな出征いわいは自粛された。
郷里をたびだつとき、戦場の最中におるとき、決戦にむかうときに兵士は、遺書や、家族、地域の関係者などにてがみやはがきをおくった。ほこには兵士のこころのうちをつづった。ほればかりではなく、関係者への近況報告、感謝のきもちなどかいたもんもあり、地域社会と兵士とのつながりがふかいもんであったことがみてとれる。
なくなる2週間まえのてがみがさいごのてがみになった。ほこでは、バルチック艦隊とのたたかいになったばあいの戦死も覚悟しとるだけど、日本海海戦はまんだ数か月あとのこと。
戦死電報 - 1904年12月22日
カイグンダイグンイ イナガキキウイツドノハ ホンゲツ 一三ニチ リョジュンコウ ホウサキンムチウ センシセラレ イガイハナシ.
カイグン ジンジキョクテフ.
(※ 「ホウサキンムチウ」は「封鎖勤務中」の意味)
戦死電報も展示されとる。稲垣久逸さんは2020年12月13日に戦死。電報のひづけは2020年12月22日。
大心院の軍人木像。
大心院にまつられた軍人木像。木像は名古屋の仏壇や京屋伊助でつくられた。木像のたかさは30センチほどある。一体づつかおやみにつけるもの、勲章などあわせてつくられとる。木像の台にあるふだには軍の階級と氏名、ほのうらには院号や法名がかいてある。稲垣久逸の木像よこの僧侶は大心院をたてた久逸のちちおや、稲垣与次左衛門。いちばんうしろのみぎはしには元帥海軍大将伊東祐亨のおい、伊東綱丸の木像がある。
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大心院は稲垣久逸氏のちち、古井村(あんじょう市内古井町)の稲垣与次左衛門が戦死したむすこをはじめあんじょうちょう出身の日清日露戦争の戦病死者をとむらうためにたてた施設である。ばしょは現在のあんじょう市内御幸本町(あんじょうし図書情報館ひがし)にあった。1911年に竣工され、戦病死した兵士の木像が当初36体まつられた。まいとし追徴法会(ついちょうほうえ)がいとなまれた。ほのあと、移転を2度余儀なくされ、1999年大心院は解体された。
むすこ稲垣久逸さんをなくしたちちおやは、僧侶になってとむらいのために大心院を建設。なかにまつったのは仏像じゃなくて軍人木像。じぶんのむすこだけじゃなくて、この地域出身の日清日露戦争の戦死者をあわせて36体の軍人木像。最前列中央にあるむすこの軍人木像のとなりには、僧侶すがたのじぶんの木像もおいた。
あんじょう大山郵便局からちょこっとにしにはいったとこにあきちがあって、ここに大心院があっただよってきいたことがある。ほのときは、「ふーん、廃寺かー」ぐらいにしかおもわんかっただけど、まさかわがふるいゆかりの慰霊堂だったとは。展示資料に1999年解体ってかいてあるで、あきちの状態をみたのはほの2、3年あとのことになる。大心院がなくなったいま、軍人木像は南明治連合町内会が管理しとるってきく。
(さんこう)
- 卍大心院教会|愛知県安城市 - 八百万の神
- 愛知県安城市(あんじょうし)城南町(じょうなんちょう)1-1-11
〔※ あんじょう大山郵便局からちょこっとにしにはいったとこ〕
- 愛知県安城市(あんじょうし)城南町(じょうなんちょう)1-1-11
- 終戦75周年記念特別展「戦争に行くということ」|インターネットミュージアム
- 1873年、近代的な軍隊整備を目指した明治政府により徴兵令が制定されると、一定の年令に達した男子が兵士としての訓練を受け、戦場に送られる体制ができあがりました。対外戦争を重ねるたびに戦場は拡大し、1945年に終戦を迎えるまで、多くの人々が兵士として戦場を経験することになります。
- 特に1931年の満州事変以降は、招集・志願を問わず、数多くの人々が出征しました。中国や南方の国外に派遣され、そこで戦った人だけではありません。飛行機の整備兵だった人、軍医だった人、兵士の教育に携わった人、兵器の製造に携わった人、本土を護るために特攻や防衛をした人など様々な役割をもって戦いました。
- 初めての対外戦争である日清戦争からは今年125年、1945年の第二次世界大戦終戦后からは75年が過ぎ、兵士として戦争を経験した人々の多くが亡くなっております。今回の展覧会では、寄贈された数多くの遺品、資料を通して、兵士たちが経験した「戦争に行く」とはどういうものだったのか、彼らが過ごした「戦場」とはどのようなものだったのかを紹介します。
- 会期:2020年7月18日(土)~2020年9月13日(日)〔※ 月曜休館〕
- 料金:400円(中学生以下無料)
- 会場:あんじょうし歴史博物館(〒446-0026 愛知県安城市安城町城堀30)(0566-77-6655)